多くの情報がある中で、『星野良太|公務員の転職サポート』を見つけてくださり、興味を持ってくれたことに感謝いたします。

改めまして、こんにちは。
『星野良太』です。

中学の部活の後輩カメラマンにとってもらったプロフィール写真
カメラマンのアカウントはこちら:https://www.instagram.com/_junia_portrait/

NOTEでは、かなり久しぶりの投稿になり、昔書いていた記事は削除してしまったので、簡単にではありますが自己紹介をさせてください。

  1. はじめに(SNS等のプロフィール)
  2. 人生概要
  3. 爆誕
    1. ルーツ
  4. 小学生時代
    1. サッカーと柔道の両立
    2. 体型と運動能力へのコンプレックス
    3. コーチとの決別
    4. バスケットボールとの出会い
    5. 難しいけど超楽しい!
  5. 中学生時代
    1. 超負けず嫌い
    2. 1年生からスタメンに
    3. 努力が報われないことを理解する
    4. 周りとの熱量の違いに困惑
    5. 不完全燃焼
  6. 高校時代
    1. 365日間バスケ漬けの生活がスタート
    2. 理系も文系もできない理系学生
    3. 初めて自ら勉強した
    4. 最後の大会
    5. 大学受験に臨んでいた矢先の緊急事態
    6. 初めての海外
    7. バイブス
    8. 初めての他文化
  7. 大学時代
    1. 大学1年生:基礎スキーに没頭する
    2. 大学1年生:建築の基礎
    3. 大学1年生:自分自身の順位に絶望し、本気で勝つ姿勢を作る
    4. 大学2年生:地元の先輩からの呼び出し、消防士への始めの一歩
    5. 大学2年生:初めての海外遠征
    6. 大学2年生:1番時間のかかった課題
    7. 大学2年生:チームとして「初の表彰台」へ
    8. 大学3年生:消防士になることを志した
    9. 大学3年生:遊びも、スキーも、バイトも全力で
    10. 大学3年生:どうしても勝てなかった悔しさ
    11. 大学4年生:東京消防庁1回目 不合格
    12. 大学4年生:東京消防庁2回目 不合格
    13. 大学4年生:浪人生活への決断
    14. 大学4年生:論文発表で、文章作りと構成を学ぶ
    15. 大学4年生:中国遠征2回目
    16. 大学4年生:届かなかった結果
  8. 浪人時代
    1. 1年目:3回目 結果が出なくて絶望した
 
    2. 1年目:4回目 またしても届かなかった
    3. 幼馴染の家が火事になる
    4. 2年目:人生で初めて勉強で努力をした

    5. 2年目:東京消防庁5回目 圧倒的合格
 
    6. 就職活動 最終結果
    7. 合格後は、周りの視線が変わった
  9. 消防士時代
    1. 東京消防庁へ入庁、消防学校へ
    2. 某消防署へ配置
    3. 下っ端の時にお世話になった先輩
    4. 一級建築士への挑戦
    5. 初めての心臓マッサージ
    6. 初めての縊首の現場
  10. 公務員2年目
    1. 組織人としての葛藤と苦悩
    2. 初めての救出活動
    3. 一級建築士試験に不合格
    4. 違和感を感じた瞬間
    5. ブログを始める
    6. 一冊の書籍との出会い
  11. 公務員3年目
    1. 上司への報告
    2. 適応障害
    3. 資格取得
    4. 退職
  12. 退職後
    1. 1年目 コロナで隔離
    2. 1年目 資格取得1
    3. 1年目 150万円掛けた対話トレーニング終了
    4. 1年目 初めてのお客様
    5. 1年目 税金で残高0円
    6. 1年目 地方消防のイベントに参加
    7. 1年目 講師業開始
    8. 2年目 英語の独学開始
    9. 2年目 名古屋での出会い
    10. 2年目 消防署での人材研修
    11. 2年目 久しぶりの海外
    12. 3年目 海外への準備
    13. 3年目 海外移住
    14. 3年目 居候生活スタート
    15. 3年目 レディーボーイ
    16. 3年目 公務員のキャリアサポートをスタート
    17. 3年目 タイ語の勉強を開始
    18. 3年目 近代消防社様から出版
    19. 4年目 公務員のご相談者様が増え始める
    20. 4年目 過酷なタイ語2年目
  13. 現在と未来
    1. 公務員特化のキャリア支援事業
    2. 海外への就職支援(5年後までに)
    3. フリーランス・起業支援(3年後までに)
  14. 最後に
  15. 各種リンク

はじめに(SNS等のプロフィール)

公務員の転職について解説|公務員からの転職で後悔する人を0に|🇹🇭タイでタイ語と英語を学びながらトリリンガルを目指し、タイ法人の設立を計画中|コーチ(CPCC®︎、認知行動コーチ®)、講師、ブログ、官公庁人材研修実績あり|近代消防社とコラボ書籍の販売、2冊目の書籍作成中|HP→https://on-coa.com

これだけ見ても「よーわからんっ!」ってなると思うので、ちゃんと僕の生き様について詳しくお話しできればと思っています。

各SNSのリンクはこちら

公務員のキャリア設計ブログ
公務員専門のキャリアサポートHP
公式LINE(450ページ越え、動画付き特典)
X(最新情報はここから)
Instagram(簡易キャリア設計を解説)
YouTube(準備中)

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人生概要

名前:星野良太(星野良太)
生年月日:1994年12月8日
出身地:東京都目黒区
経歴:2007年3月 目黒区立碑小学校 卒業
   2010年3月 目黒区立第八中学校 卒業
   2013年3月 国士舘高校普通科 卒業
   2017年3月 国士舘大学理工学部理工学科建築学系 卒業
   2018年10月 東京消防庁 入庁
   2021年3月   東京消防庁 退職
   2021年4月 個人事業主
   2023年12月〜 タイ移住
   2024年1月 公務員特化の転職・キャリアサポート事業

爆誕

ルーツ

幼稚園卒業式後の記念写真

1994年12月8日 東京都江戸川区の病院で生まれ、その後すぐに目黒区へ来ることになりました。0歳から28歳までの28年間は、ほぼ東京都目黒区での生活になります。僕の家族は、父、母、妹の僕を含めた4人。父は、祖父の時代から実家で営んでいた会社の社長を行なっていました。また、当時は、祖父と祖母が同じ家の1階に住んでいたので、2世帯住宅で自分自身の部屋も持つことができないくらいのぎゅうぎゅうな状態でした。また、親父は完全に昭和の男って感じで、「疑わしきは殴る蹴る」の家だったこともあり、当時はちょっと親父のことを怖いなって思いながら生活をしていました。今ではありえないような教育を受けてきましたが、僕自身はその中で

「人の痛みを知り、他人に優しくできるような男にになれ」

と教えてこられたのでばないかと今では感じています。また、僕自身は小さな頃から友達と遊ぶのが好きで、よく友達に電話をしては遊びに行く予定を立てるような少年だったのですが、

「今日は習い事だから無理。」

「他の人と遊ぶから無理。」

というように、断れると家の隅で「僕には友達がいないんだ..」と泣き弱っていたそうです。それを見て、うちの母は笑っていたのですが、実はこれが後々大きな僕のトラウマに繋がっていくのでした。そんな僕が、今でも後悔をしているほどカッコ悪い姿を初めて晒した瞬間が、小学校3年生の時に訪れるのでした。

小学生時代

サッカーと柔道の両立

柔道を習っていた頃の僕
※画像サイズ調整できず、大きいまま載せてます

僕は、3歳の頃から、親と従兄弟の影響で柔道を始めました。両親の考えとしては、

「礼に始まり、礼に終わる」といった、武道の精神のあり方を学んで欲しい

といった点から、その機会を作ってくれたそうです。また、幼稚園生の当時は、周りの友人がサッカーをやっていたこともあって、僕もサッカーを始めました。そんなことから、小学生になっても柔道とサッカーの両立をしながら小学生時代を過ごすことになります。しかし、全くもって勉強をしてこなかったので、学校のテストでは、最下位を争うような状態だったので、さぞ僕の両親は心配をしていたのではないかと思っています。実際、このような生活が原因で、消防士になる頃に痛い目をみることになります。

体型と運動能力へのコンプレックス

ぽっちゃり体型の時の僕

しかし、小学生の頃にやってきたサッカーでは、大きなコンプレックスを抱えることになりました。それが、「ぽっちゃり体型」「走るのが遅い」といったコンプレックスでした。サッカーの練習になれば、足が遅かったことから練習中には周りの人にも迷惑をかけながら走り込みの練習を行なっていて、周りの仲間にも迷惑をかけていることに罪悪感を感じながら、嫌々練習を行なっていました。しかも、当時の監督からはこのような言葉を投げかけられます。

「お前太ってっから足遅いんだよ。もっと痩せろよデブ。」

当時の純粋むくな僕にとっては、非常に辛い言葉でした。こういったことって、大人になればなんてことないことなのですが、小学生の頃って意外とこういったコンプレックスを言われると傷ついてしまいやすかったりするんですよね。そんなことから、ある決断をしました。

コーチとの決別

サッカーチームの合宿中

「僕、もうサッカーやりたくない。やめる」

コーチからの言葉や僕の心情を、泣きながら素直に親にも話をしました。きっと、僕の両親も悔しい思いをしたのではないかと思います。でも、もうどうしてもサッカーをする気になれずにいたので、これを機にサッカー、そしてそのコーチとの関係を決別することにしました。しかし、これがきっかけで、新しいチャレンジの扉が開きます。

バスケットボールとの出会い

当時のミニバスに誘ってもらった仲間たち
※画像サイズ調整できず、大きいまま載せてます

サッカーを辞めて、学校の中での人間関係も少しづつ変わっていきました。そんな昼休みのある日、幼稚園の頃から知り合いだった友人に誘いを受けます。

「バスケやらない?楽しいよ!」

人間関係が変化したタイミングでもあったし、何か日常に物足りなさを感じていたこともあって、初めて地域にあったバスケットボールチームの練習に参加をしてみました。

難しいけど超楽しい!

バスケの写真がないので → スキーで転んで怖くて泣いていた僕

多くの物事って、初めからうまくいくことはほとんどないと思うのですが、バスケットボールも同じでした。初めからドリブルができて、パスができて、スペースに走り込むことができてなんてできるわけもありませんでしたが、新しく学んでいくことができるようになることはとても楽しかったことを今でも覚えています。しかも、今まではコンプレックスだった体型が、バスケットボールではフィジカルを生かしてプレーをすることができていたことも、良かったのだと思います。ただ、なかなか試合で勝つことができるわけではなかったので、

「もっと上手になりたい!」「もっと勝ちたい」

という思いから、そのクラブチームの先輩もたくさんいて、当時地元でも強いとされていた中学校が学区域内だったため、その中学校にいくことを決めました。

中学生時代

超負けず嫌い

中学生の時の部活動

中学生になると、すぐにバスケットボール部への入部届を出し、練習に参加することになりました。当然、僕がいたクラブチームの3つ上の先輩たちが強かったので、3年生が引退する夏の試合まではベンチメンバーとして起用されていました。しかし、先輩たちが引退した後には、このような気持ちが出てくるようになります。

「この先輩たちを蹴落としてでも、ポジションを奪い取る」

言葉使いは良くないですが、これは本気で思っていたことなので、誰よりも部活中の練習は頑張りましたし、休みになれば駒沢公園に行って高校生や社会人の人たちとのゲームに参加してレベルを上げるようにしたので、365日バスケットボール漬けの日々を過ごしていました。

1年生からスタメンに

バスケをしていた時に見ていた風景

そんなこともあって、1年生の頃から2年生の中に混ざってバスケットボール部のスターティングメンバーに入ったり、ベンチメンバーとして試合に出るようになります。小学生の頃にはコンプレックスになっていた体型も、フィジカルという名の武器に変化していました。しかし、中学生の時に、これらの努力が実ることはなかったのです。

努力が報われないことを理解する

当時の写真がないので、イメージ画像

僕も中学2年生になり、チームの主力メンバーで戦うことになるのですが、365日練習をしてもそれが報われることはありませんでした。

実際に、先輩たちの引退試合まで、公式戦では3回戦どまり。優勝は愚か、準決勝にまで進めない始末で、小学生の頃のクラブチームの先輩達の成績には足元にもおよびませんでした。普段の部活の練習でも、当時の先輩たちのような熱量がその体育館にはありませんでした。

でも、僕は小学生の時にあったサッカーの監督との関係値から、

「他人に嫌われたくない」

といった感情もあって、それをチームとして指摘することもできませんでした。そんな状況が続き、結局先輩たちの引退試合も2回戦であっけなく負けることになります。そして、ここから、僕らが最上級生としての部活動が始まっていくのでした。

周りとの熱量の違いに困惑

中学生1人で、大人のストリートバスケに混じって練習させてもらっていました

先輩たちの引退試合後、僕自身はとても悔しかったし、このまま後輩たちにこの部活を引き継いでいくのが嫌だったことから、今まで以上に本気で練習を行いました。誰よりも走り込んで、誰よりもボールに触って、誰よりもシュートを打って、高校に進学ができる学力になるまで塾に通わせてもらいながらバスケと勉強を両立していました。しかし、ある日突然周りとの空気感の違いに気がつくことになります。

「お前だけだよ。何熱くなってんだよ。」

中学生の時のチームメイトからこのような言葉を言われて、後輩たちからも徐々にその姿勢がバカにされるようになっていきました。「え、俺何か間違ったことしてるかな?」徐々にそんな思いが募っていきます。でも、負けたくないし、「強くなって楽しくバスケがしたい」その思いから僕らの引退試合へと近づいていくのです。

不完全燃焼

実は、僕が部活の最高学年だった時には、監督がバスケの経験者ではなかったり、学校の中でも問題視されていた先生が部活の顧問になるなどの問題もありました。それに加えて、周りのチームメイトとの熱量の差もあって、公式戦では一度も勝ったことがありませんでした。本当に情けない結果です。

最後の試合前には、元関西地区準優勝の経験があるコーチが付いてくれましたが、最後の公式戦でも、チームメイトとの熱量の差が大きく出てしまい、

「一度も公式戦で勝つことなく引退」

という悲惨な結果を招きました。本当に悔しくて、情けなくて、そんな思いで僕の心はいっぱいでした。完全に不完全燃焼と終わってしまった次の日から、高校受験とバスケットボールの個人練習の日々が続くのでした。

高校時代

365日間バスケ漬けの生活がスタート

大学の横が高校だったので、隣接していました(※写真は旧体育館の跡地にできた新体育館)

中学生の時には、親にお願いをして従兄弟が通っていた学習塾に通わせてもらったので、なんとか単願推薦で国士舘高校へ行くことができました。高校入学後は、すぐにバスケットボール部への入部届を提出し、ここからまたバスケットボール漬けの日々が続いていきます。

高校の部活動では、僕よりも上手な仲間や先輩が何人もいて、しかも同じように365日休みなくバスケットボールをしている仲間もいたので、すぐに意気投合しました。朝は7時から、学校が終われば18時まで部活を行い、その後は駒沢公園でバスケットボールをして、夜22時前に帰宅する。そんな生活を同級生の友人も3年間も続けていたので、1年生の中盤からはレギュラーメンバーの中心が僕らになるようになっていました。

実は、中学生の時から通っていた駒沢公園のバスケットリングが、僕らの自主練のホームでした。

しかも、合宿に行けば、

当時

群馬県ベスト4     桐生第一高校
埼玉県ベスト8     埼玉栄高校
神奈川県ベスト4    横須賀学院高校
関東大学一部リーグ 拓殖大学
関東大学二部リーグ 聖徳大学
関東大学二部リーグ 国士舘大学

※過去に日本代表に選ばれた、原修太選手、鈴木達也選手などの現在のトッププロの選手達に、ボコボコにされるような合宿に行ってました。

錚々たるチームの中で揉まれてきたので、かなりチームとしても強くなっていたと思います。副部長としても務めていたので、バスケットボールだけではなく、人としても良い経験ができたのではないかと思った。

そりゃ365日、毎日バスケットボールをしていたので、それなりにうまくはなったのですが、その分大きな忘れ物をすることになるのです。それが…

理系も文系もできない理系学生

画像

365日、勉強もせずにバスケットボールばかりやっていれば、そりゃ勉強もできなくなりますよね。高校2年生にも上がり、少しづつ大学受験にも意識がむき始めて、高校2年生から物理専攻の授業をとっていたのですが、そこで衝撃的なことが起こります。物理のクラス9人のうち8人が赤点、しかも僕はそこのケツから2番目の「5/100点」。当時の先生からは…

「君たちは、理系のできない理系だよね。もっと勉強しろよ。」

そんなことを言われるようになってしまし、赤点を取ったものの理科室の掃除と課題の提出をすることで留年を逃してもらうといったことがありました。「いや、流石にこのままではまずい…」そう思った僕は、この出来事をきっかけに、大学受験に向けて、そして今までの自分自身への戒めも含めて真面目に勉強をするようになります。

初めて自ら勉強した

画像

高校生の時に初めて取った、テストの赤点をきっかけにして、真剣に大学進学や僕自身の人生について考え始めるようになりました。高校3年生に上がった4月を境にして、僕はある行動を始めます。

学校には1番早く行き、教室の鍵を開けて、MARCHや国公立を受験する同級生に混ぜてもらいながら勉強をして、わからないことを教えてもらう

このような取り組みを始めました。クラスではもちろんケツから数えたほうが早いくらいのバカでしたが、3〜4ヶ月もすると徐々に学力が上がり始めて、できないことができるようになる楽しさに気がつき始めます。本当に0からのスタートなので大変ではありましたが、僕自身は朝早くから同じ方向性を持って進んでいるクラスの仲間とその環境にいることが本当に楽しく感じ始めていました。そして、大学受験の勉強と並行して、僕のバスケットボール人生最後の引退試合も同時に近づくのでした。

最後の大会

高校の監督と卒業式後の写真

当時、校舎の建て替えがあったため、多摩にある大学の校舎を使用したり、時には屋上にある風が吹くような屋上のコートで練習を行うなど、厳しい状況の中でもチーム全体で練習環境を作り、最後の大会を迎えることになります。そして、迎えた引退試合の日。相手は東京都ベスト4にも入ったことがある強豪でしたが、僕たちは善戦を尽くします。第1Qから、相手の190cm近い選手にゴールを阻まれながらも、パスとドライブ、そして3Pシュートをリズムよく組み合わせて、なんとか10点差をキープして迎えた第4Q残り5分。ついに、相手チームの点差に並びました。これは、いけるかもしれない。マジで勝ちたい。チーム全体がそう思っていた矢先に主力メンバーの1人が退場、さらに40分間走り続けてきた疲労からキャプテンが足を攣ってしまい、一時離脱。相手チームの主力選手も、足を攣り、退場するような一進一退の状況が続きます。そんな中でも、なんとか5点差をキープして迎えた残り2分。僕らのチームのキャプテンがコートに復帰し、逆転をします。残り1分になると、相手チームも足を攣っていた主力選手がコートに戻り、逆転をします。誰しもが本気でいけると思っていましたが、その希望は叶わず、戻ってきた相手の主力選手に流れを持って行かれてしまい、そのままゲームが終了しました。

この試合のために、本気で走り込んできたし、本気でバスケットボールに向き合ってきたし、本気でその試合を楽しむ準備をしてきたからこそ、この試合の負けは悔しかったです。人生でもトップ5に入るくらいには悔しい思いをしました。

しかも、普段鬼のような監督も最後のミーティングでは…

今までで1番良いチームだった。勝たせられなくてごめん。

そんな言葉を聞いてしまい、僕らが監督を勝たせられなくて本当に申し訳ないという気持ちと、後輩たちへの想いが溢れて涙が止まりませんでした。このような経験から、このようなことに気がつくようになりました。

「手を抜かずに取り組んだその先に、経験と感動があるんだ。」

大学受験に臨んでいた矢先の緊急事態

部活動も引退し、ここからは大学の受験に向けて、足りない学力を補おうと、朝は1番早く学校に来て、夜も1番遅くまで勉強し、とにかくがむしゃらに勉強をしていました。しかし、そんな時にある事件が起こります。夜になっても母が家に帰って来ず、親父も仕事から帰ってきて母がいないことに怒り、 僕も仕方なく料理をしていた矢先の母からの電話でした。

「急に今日から入院になって、当分帰れない。」

一瞬頭が真っ白になりましたが、話を聞いてみるとあることがわかりました。それは、「脳梗塞」です。親父との話では、最近指が痺れていて、右半身がうまく動かせないといったことがあったようで、その関係で朝から家族の弁当を作った後に病院へ行っていたとのことでした。病院に行くと、「今すぐ入院してください。」ということを医者から告げられたようで、そこから検査続きがあったため、このような状況になっていたようです。しかし、そこから家族での役割分担が変化したことから、家の家事を僕が全て担当して、少しでも親父の負担を減らしてあげたいと思ったことから、勉強には一度区切りをつけて、内部推薦をもらって大学への進学をすることを決定ました。まずは、家族第一に考えて動きを変化させました。しかし、今考えてみれば、これは完全に甘えでしかなくて、家事をしながらでも勉強をすることはできたので、勉強と家事を両立させなかった僕の怠けでしかないと感じています。でも、この身内での命の危険があったのは、消防士になりたいと思った僕にとって大きな影響を与えているのかもしれません。

初めての海外

バリ島:ゴアガジャ遺跡

大学の内部推薦も終了して、母も無事に家に帰ってきた時に、親父からある提案がありました。

「卒業旅行にバリ島行こうぜ!」

これが、僕の初めての海外経験となります。パスポートの取得をして、荷物を揃えて、羽田空港から飛行機に乗りました。初めての海外で、ちょっとした不安とワクワクした気持ちが入り混じっていたことを今でも覚えています。インドネシアのバリ島にあるデンパサール国際空港に到着すると、今までに感じたことがない東南アジア独特の匂いがしました。よくわからんインドネシアのおっちゃんが「荷物持つよっ!」なんて言ってきて、当時は親切な人だなんて思っていましたが、今ではそれがビジネスとしてお金を稼いでいる人であることがわかりました。そして、初めての海外では様々な体験をしてくのでした。

バイブス

ハードロックホテルのイケメンなバーカン店員と

バリ島についた初日から考えていたことの中に、「日本ではやってこなかったことを体験しよう!」と決めていました。そのため、僕は英語を話せるわけではなかったのですが、本当に簡単な単語を並べて外国人に写真を撮ろうと話をしてみました。今考えると、何事もないバーで仲良くなった外国人と写真を撮ることはあまりないのですが、言語がわからなくても「自ら話そうとする姿勢」はこのときに初めて身につけてきたのかな?と思います。特に、海外にいると、自ら自分自身のことを表現する力を問われる場面が多いと感じているので、このような行動力は僕の中でも大事にしています。

このような体験がきっかけとなって、海外への興味を持ち始めることになります。そして、バリ島では初めて言語だけではなく、日本とは違った文化を知ることになるのです。

初めての他文化

バリ島でアテンドをしてくれたゼンさんと家族

バリ島では、親父が予約をしてくれていたガイドのゼンさんにインドネシアの文化的なツアーにも連れて行ってもらいました。そこではケチャックダンスと呼ばれるバリ島の伝統舞踊で、「勧善懲悪の物語で、善が必ず悪を倒す」というメッセージが込められているダンスを見ました。日本では見たことがないこのスタイルと文化に少し圧倒されて、「こんな世界が他にもあるのかもしれない、異文化世界って面白い」と思うようになりました。この体験をさせてくれた両親と妹には、本当に感謝をしています。

バリ島で見た伝統的な「ケチャックダンス」

このような、海外での経験を通して、これからの僕の生き方に大きく影響するようになります。そして、大学時代に訪れる海外遠征へ一歩踏みだすためのきっかけとなって行くのでした。

大学時代

大学1年生:基礎スキーに没頭する

12月から居候をさせてもらっていた斑尾高原スキー場

大学に入学してから、さまざまなサークルの勧誘がありましたが、実は入学当時からずっと気になっていたクラブがありました。それが「スキークラブ」です。小さな頃から北海道や長野県のスキー場に連れて行ってもらった記憶があったことと、親父がスキーをやっていたこともあって、スキーサークルに興味を持ちました。僕の場合、「やるからには本気でやりたい!」と思うことが多いので、サークルよりもガチでやる人が多いクラブを選択しました。僕は初心者でしたが、本気で上級生に勝つつもりで冬までトレーニングを行い、学業も行うことになります。

大学1年生:建築の基礎

「フランクロイドライト:落水荘」の模型

大学では、建築学を専攻していたので、このような模型を作成したり、図面を書くための基礎を学ぶ機会が多くありました。しかし、当時はまだ消防士になることを志していたわけではなく、学校の出席システムもICカードを専用の機械にタッチすると出席になるシステムがあったので、実習以外の授業は食堂や体育館でサボっていたことを覚えています。最低限の単位と学習のみを行なっていたのでちょっとだけ後悔しています。今考えてみれば、授業料を無駄にしていることもあるし、学ぶことの楽しさを知っていればもっと自分から建築についても学んでいたのではないかと思います。このような大学生活も、段々と慣れていくと冬になりスキーの季節がやってくるのでした。(当時の俺よ、ちゃんと授業受けろ!笑)

大学1年生:自分自身の順位に絶望し、本気で勝つ姿勢を作る

スクールのレッスン時に撮ったキッズたちとの写真

大学の授業やテストも終了し、本格的にスキークラブの活動が活発化していきました。僕は、長野県にある斑尾高原スキー場のスキースクールで居候のお世話になることになり、僕と合わせて数名の一年生が子どもたちのインストラクターを行うことになります。仕事をして、余った時間で自分たちのスキルを習得するため、1日のスケジュールは結構ハードな毎日だったのではないかと思います。朝は6時半ごろから雪かきを行い、夜はナイター練習があると帰るのが9時半、風呂に入って居候先の仲間とお酒を飲み、スキー談義をしてから就寝する生活でした。3月に行われる全国学生岩岳スキー大会での上位を狙うために、ほぼ毎日このような生活が2ヶ月ほど続きついに大会を迎えることになります。

初めてのスキーの大会:当時の仲間の母撮影

初めての大会では、約4000人近くの学生が男女に分かれて個人個人のスキルを争う大会だったため、とても緊張したことを覚えています。心臓はバクバクなり、斜面の下には多くの学生たちが応援している中で緊張はマックスに。

「うわ、すごい人。めちゃ緊張してる。でも勝ちたい。やってきたことをしっかり出したい。」

そんなことを思いながら、スタートラインに立ちました。しかし、滑り終わるまでの記憶がないくらいには緊張していたため、滑り終わってからようやく現実世界に戻ったような感覚でした。そして、結果は惨敗。くやしかったです。2ヶ月間、いや夏の間から筋トレもしてきたし、走り込みもしてきたのにその結果が出なかったことに対して本当に悔しさを感じました。「来年こそは絶対にもっといい結果残す。」そう決めて、この大会を締めくくり、大学2年生を迎えるのでした。

大学2年生:地元の先輩からの呼び出し、消防士への始めの一歩

建築選考の授業

大学2年生になり、建築の勉強もより本格的に専門性が増してきて、勉強が大変になってきた中で、僕の地元の先輩から声がかかった。

「おい、良太。飲み行くぞ。」

その先輩は、僕が小さな頃から地元でお世話になってきた先輩で、今でも尊敬している先輩の1人です。この時は突然呼び出されて、正直何事かと思った。そこで、放たれた言葉が、僕の社会人としてのキャリアをスタートさせることになるとは、思ってもいませんでした。この時には、「バイトもあるし、学校の授業もあるし、正直めんどくさいな…」って思っていましたが、ビールと美味しいご飯をいただいたこともあって、断るに断れない状況となっていた時に、その先輩からいただいた言葉で、入団することを決意します。

「お前、いつになったら消防団入るんだよ。そろそろ、住民票もってこい。絶対に楽しい時間にしてやるからさ。」

大学2年生:初めての海外遠征

全日本選手権に出ている先輩たちとの中国合宿

消防団としての活動、建築学生として学業と並行して、昨年の大会の悔しさを晴らすためにもスキークラブの活動を続けてきました。そんな時、あるチームの監督からこんな言葉をもらいます。

「ほっしー、中国合宿行こう。そして上手くなろう。男なら腹括って決めるんだ。」

正直、2週間くらい迷いました。合宿費として12日間で40万円(税抜)かかると言われたからです。社会人にとっても簡単に払える金額ではないのに、学生にとっての40万円はもっと大金にも感じました。でも、スキーも上手くなりたかったし、バリ島に行った時の思い出から、海外が楽しい場所であることもわかっていたので、腹を括ってバイトに励み、中国合宿に参加することにしました。

河北省 万龍スキー場でのトレーニング風景

ここのゲレンデは、2022年の北京オリンピックで使用された「シークレットガーデンスキー場」です。中国の河北省では、気温はマイナス20度、風速15m/s、体感温度がマイナス35度、雪質はほぼ氷でダイヤモンドダストができるほどの厳しい環境の中で、毎日7時間近くのトレーニングを行いました。また、ホテルでは、中国人のスタッフを相手に簡単な英語でコミュニケーションを取ったりも行いました。その分、この期間での成長が大きく、大会でも徐々にその成果が現れて行くのでした。

当時のトレーニング動画↓

CAM00804.mp4

大学2年生:1番時間のかかった課題

木材を切って、家を作る課題

スキーの合間を練って(?)学校の課題もなんとかギリギリでこなしてきました。多分これが課題の中では、最も時間のかかった内容だったと思います。(合間を練ってやるのがクラブ活動なはずだよね…)

大学2年生:チームとして「初の表彰台」へ

チーム初の表彰台

1月のテストも終了し、ついにスキーも2年目に入りました。この年から、居候先が、長野県にある野沢温泉村に変わります。中国での合宿も経験し、技術的なレベルアップをすることができたので、個人的にも大会の最終日まで残ることができたし、チームとしても初の表彰台を掴むことができました。この時のために、僕の力が役に立ったことがとても嬉しかったです。ただ、個人としては、まだまだ上位を目指したいと思ったことから悔しさも残る大会となりました。ここで、中国合宿に誘ってもらった監督からこんな誘いをもらいます。

「お前、うちのメーカーの学生チーム来いよ。もっと上手くなろうぜ。」

もしかしたら、僕はずっとこんな言葉をもらえることを待っていたのかもしれません。ちょっと脳筋的な考えかもしれないですが、一緒に上を目指せる仲間の中にいる時は、最高に楽しいことを知っていました。だからこそ、僕は即答で「ぜひお願いします!もっと上手くなりたいです!」と返答し、さらにスキー沼へと足を踏み入れて行くのでした。

大学3年生:消防士になることを志した

消防団の訓練風景

大学3年生になると、多くの大学生の間では社会人に向けたインターンが始まって行くのではないかと思いますが、僕は違いました。実は、この春のタイミングで大きな事件が起こります。それが、「幼少期の友人宅から火災があったこと」でした。ある日、駅前で消防団の広報活動をしていると、周りが騒然とし始めます。しかも、僕だけ何も知らない状態で周りの団員もいなくなっていました。そこで駅前を離れて騒然としている方に走っていくと、そこで火災が発生していたのです。まさかとは思いましたが、その家が友人の実家だったのです。しかも、これが初めての火災による出場だったこともあって、「あっ、本当に家って燃えちゃって、何も残らなくなっちゃうんだ…」って実感することができました。

「ご家族も悲しい表情をされていて、住民の人たちも不安そうに見てる。僕も災害の最前線で働いて、こんな悲しいことをなくしていきたい。」

そんな思いを始めて抱きました。このような貴重な経験を経て、徐々に本職の消防士になることを志して行くようになります。しかし、勉強には本腰が入らず、クラブ活動の沼へと入って行くのでした…(勉強しろww)

大学3年生:遊びも、スキーも、バイトも全力で

大学3年生の時に行ったROCK IN JAPAN FES

大学3年生にもなれば、周りの仲間も公にお酒が飲めるようになり、社会人の遊び方へと変化していきますよね。実際に、僕もそうでした。スキーのためにバイトでお金を稼ぎつつ、夏になれば花火大会や音楽フェスなどに行って、大学生としての思い出作りを行なっていました。(周りはきっと就活してたのにね…ボソッ)しかし、これも今となっては良い思い出だと思っていて、社会人になれば人間関係も変わっていきますし、この時この瞬間を楽しめていたことは本当に良いことだと思っています。今ではなかなかできなくなってしまったことが大学生であればできるのですからね。そして、勉強もせずにまた冬の時期がやってくるのでした…。

大学3年生:どうしても勝てなかった悔しさ

大学3年生の大会時の滑り

大学3年生にもなると、居候先の野沢温泉でも仕事にも慣れてきて、練習とプライベートを両立しながら生活ができていたはずなので、勉強もすればよかったのですが…完全にスキーの沼に入っていました。毎日子供や旅行をしている社会人の人たちのスキーレッスンを行い、その合間で自分たちの練習をして、仕事が終わるとトレーニングや滑りの動画を見返すといった、本当にスキーだけの没頭した生活をしていました。でも、これだけスキーに打ち込んでいたのには、訳がありました。それは

「お世話になった先輩よりも成績を出して、安心して引退して欲しかった。」

僕は、本当に初心者からのスタートで、他の先輩は小さな頃からやっていたり、高校でもインターハイに出るくらいの先輩たちでした。しかし、その先輩たちよりも良い成績を残すことで、先輩たちが引退してしまった後でも

「先輩たちが抜けても、僕らがチームを引っ張っていくよ。」

という意思表示をしたかったのです。だからこそ、本気で勝ちを掴みに行ったのですが、惜しくもその目標には届きませんでした。正直、大学4年間で最も悔しい瞬間でした。でも、ここまで食らいついたことを先輩たちも評価してくれたのではないかと思っています。そして、この年の冬も終了し、ついに就活の時期がやってくるのでした。

大学4年生:東京消防庁1回目 不合格

卒業論文に伴う実験中の写真

冬が過ぎで、ついに大学生活も大詰めを迎える4年生になり、僕も東京消防庁の教養試験対策と卒業論文のための実験に追われていました。多くの大学生は3月1日から就職活動が解禁となっていたので、すでに就活を始めている人も多かったですが、僕の場合は地元である東京の安心安全を守りたいと考えていたことから、東京消防庁の試験対策のみを行なっていました。しかし、ここまで見ていただいてもお分かりいただけるように、僕はろくに勉強をしてこなかったですし、試験に関しても「まぁ、ノリでなんとかなるっしょ!」というように超楽観的に考えていたことから、見事に一次試験は

得点:8/45点
結果:不合格
受験者数:4837人
最終合格者数:365人
試験倍率:13.3倍

という悲惨な結果で終わることになりました。東京消防庁では、だいたい5月と9月の2回試験が行われていたので、次の2回目の試験まで勉強することになります。

大学4年生:東京消防庁2回目 不合格

迎えた2回目、今回はそれなりに勉強をしてきたつもりでした。しかし、朝試験会場に向かうと、周りの人たちはとても頭が良さそうに見えて、なぜか僕の方が頭が悪いかのような感じに襲われることになりました。そして、その予想は的中します。

得点:10/45点
結果:不合格
受験者数:2691 人
最終合格者数:107人
試験倍率:25.1倍

正直、初めは頭が真っ白になりかけましたが、「まぁ、勉強してこなかった自分自身が悪い。また来年頑張ろう。」そんな軽い気持ちを持ってしまっていたのです。本来、僕は火災対応を経験してきていて、人の命の重みをわかっているはずなのに、自分自身の人生の時間を無駄にするような感覚を持ってしまっていました。今となっては、かなり後悔しています。このような甘い考えが、僕の人生を大きく変えて行くことになるのでした。

大学4年生:浪人生活への決断

論文作成のためのデータ収集中の様子

浪人生活が決まり、親にも頭を下げて、もう一年東京消防庁へとトライすることを決めました。しかし、僕に待ち受けていたのは、「卒業論文」そして「クラブ活動」という大きな壁でした。特に、卒業論文では、学年の中でもトップクラスにきつい実験を行い、その実験結果のデータをまとめてA4サイズの紙に書き起こすことでした。朝は8時には研究室へ向かい、夜は学校がしまる22時までパソコンと睨めっこをしながらデータをまとめて、慣れない文章を作成するといった生活になりました。1週間に2回程度は研究室の教授に卒論の添削を出すのですが、「何回修正しても終わらない…」そんな苦しい日々を繰り返してなんとか、約260ページの卒業論文を書き終えることに成功しました。(マジできつかった…)

大学4年生:論文発表で、文章作りと構成を学ぶ

卒論時のポスターと実験で使用した機材

そんな卒業論文漬けの大学4年生を送ることになった僕ですが、この卒業論文の作成をきっかけにして、少しづつ文章を作る力と情報を収集する力、さらには情報を分析して考察する力がついたのではないかと感じています。実際に、何度も終わらない卒業論文の添削の中で、教授から言われた衝撃的な言葉があります。

「文章なんて、目次さえできちゃえば7割完成だから。」

大学4年生になるまで、国語を最も苦手な教科としていた僕にとっては、この言葉が結構大きな人生を変えた転機となるのでした。

大学4年生:中国遠征2回目

遠征途上に寄った「万里の長城」

卒業論文も終盤に入り、概要書の作成や発表の準備を行うような段階に入ったある日、 ” あの ” スキーのコーチから連絡がきました。

「おい、ほっしー。何してるんだよ。早く中国合宿申し込め。
最後の年に悔いを残して終わらせちゃダメだよ。男なら腹括っていくぞ。」

そう、大学2年生の時に声をかけてもらい、スキーのメーカーチームにも誘ってくださった監督からこんな言葉をもらった僕は、なんだか心が熱くなってしまって、すぐに中国に行くと返事をしてしまいました。この時、まだ卒業論文は終わっていませんが、なんとか研究室の教授を説得し、論文も合宿終わりには終わらせることができました。

レストハウスにいた、プーさんとキティちゃん(※きっと公式)

今回の会場は、海外のナショナルチームが遠征で来ていたり、北京オリンピックの候補地でもあった「万龍スキー場」という場所です。大学2年生の時に行った「シークレットガーデンスキー場」よりも気温が少しだけ高く、風速も5m/sと比較的穏やかな環境の中でトレーニングをすることができていました。2回目の中国、正直かなり心が躍りました。

遠征をしていた仲間と一緒に

もちろん、スキーのトレーニングは毎日硬くてしまったアイスバーンを滑ることができていたので、いい練習ができたと思うんですが….

その反面で、スキーって意外と体力使う競技なのと、本場の中華料理がおいしく、中国のクラフトビールも毎日飲み放題のセットだったので、この期間だけで10kg近く太ったことにはびっくりした覚えがあります。

当時のトレーニング中の動画↓

MOV_0524.mp4

大学4年生:届かなかった結果

大会後の一枚

中国合宿も終え、スキーシーズンも終盤に差し掛かり、大学生最後の大会、結果は惨敗でした。中国合宿ではいい感覚がつかめていたものの、気合が入りすぎてミスを連発し、最終的に目指していた表彰台どころか、だいぶ順位を落として大会を終えることになりました。

大会参加者数 約1000人   
個人順位 79位

当時所属させていただいたチームの仲間と

でも、不思議と悔しくなかった。多分、大学1年生の頃に初心者としてスタートして、大学4年生のこの大会に向けて全てをかけてやれることをやってきたからこそ、その感情になれたのかもしれないです。

この経験を通して僕が学んだことは、「やり切る力」だったのではないかと思っています。だからこの、この後に待ち受けている消防士の試験でも「やり切る力」が発揮されるのでした。

浪人時代

1年目:3回目 結果が出なくて絶望した
 

浪人時代に僕が作ったノート

大学生生活も終了し、ついに東京消防庁へのリベンジ。卒業からの期間は2ヶ月後ほどありましたが、ここまでの勉強量はそこまで多くないものの、ボーダーラインスレスレを狙えるくらいの学力がついていました。試験当日は緊張はしましたが、昨年よりもやれた感覚もあり、不安と期待が入り乱れる中で迎えた結果発表…

得点:12/45点
結果:不合格
受験者数:4,890 人
最終合格者数:279 人
試験倍率:17.5倍

ここ数年間では、最も受験倍率の高い年となったことがありましたが、またしても不合格だったことに肩を落としました。ここから、どん底のループにハマります。

1年目:4回目 またしても届かなかった

画像を挿入

そして、9月の試験に向けて本来なら勉強をする必要がありましたが、1回目の試験で感じたダメージが大きかったのか、あまり勉強に対して前向きになれない僕自身がいました。

そんな中で迎えた4回目の試験。結果は…

得点:16/45点
結果:不合格
受験者数:2,246 人
最終合格者数:105 人
試験倍率:21.4倍

そう、知っていました僕は。2回目の試験では20倍を超えるほどの難易度に跳ね上がることを。だからこそ、勉強に対して前向きになれず、若干諦めも感じつつも勉強をしていたのです。

画像挿入

そんな時に、感じたことがありました。実は、僕の従兄弟は消防士で、政令指定都市の地方消防本部に勤めていたこともあったので、色々と話を聞く機会もあったのですが…

従兄弟「え、まぁ、仕事は楽しいけど…」

僕「あ、そうなんだ…」

僕「(心の声:消防士辞めたいと思ってるやつ、さっさと全員辞めちまえよ。曖昧な気持ちでポジション守って仕事してんじゃねーよ。なりたい奴、やりたい奴のためにその席開けろよ。クソっ。)」

そう、これが僕自身の本音だったのです。今となって考えてみれば、僕自身の勉強や未来の選択に対する意志の甘さが出ていたのではないかと感じますが、当時の僕はこう考えていたのです。そして、もう1つこの時期に大事な出来事が発生します。

幼馴染の家が火事になる

 消防団員をしていた頃の僕

僕が当時、消防士を目指しながら消防団でお世話になる中で、その広報活動を駅前で行なっていた時でした。

「人が極端に少なくなったな…なんだろ…」

この時に感じていた違和感は、何かを直感的に察していたもので、その直感は的中していました。

僕「プルルル…」
  「あ、お疲れ様です。〇〇さん、今どこにいますか?」

 Aさん「駅の裏側で火事!」
     「分団小屋行って荷物取ってくるから、お前も〇〇向かって!」

家事の現場は1~2回程度、いったことはありましたが、どちらもすでに消火された後の現場だったので、この時が初めて火災最盛期の出場だったのではないかと思います。

当時のイメージ

しかも、行ってみると、そこは幼馴染が住んでいた場所だったらしく、本人はいなかったが、お婆さんは車椅子で保護され、僕が毛布を渡した時には手が震えているのがわかりました。

しかも、僕ら消防団ができることと言えば、基本的には消防士の方々の後方支援だけ。これがとてつもなく悔しかった。

「なんで、僕ら消防団って後方支援しかできないの?装備、体力、共に外からの放水は可能なのに…」

「住民の方々はみんな不安な顔してた。お婆さんだって手が震えてた。こういう人たちのために僕の力を使いたい。僕ならできるはずだから。」

「絶対に、諦めて終わる人生なんかにしないぞ。」

そう、この経験が1つのきっかけとなって、僕の人生の歯車が大きく動き出すことになります。

2年目:人生で初めて勉強で努力をした


僕が通っていた予備校予備校近くの「駐輪場跡地」

僕は、初めて親に頭を下げて「勉強したいので、金銭面で助けて欲しいです。」というように話しました。浪人生として勉強をしながら稼いでいたお金だけでは正直足りず、恥を忍んでお願いをし、就職してから返金していく形での承諾を得ることができました。今まで勉強に真面目に取り組んでこなかったのに、勉強でお願いをするなんてことになると、僕自身も思ってなかっったです。そして、実はここのタイミングで決めて良かったことがあります。

「もう来年の試験で、このチャンスは終わってしまうかもしれない。しかも、学校の後輩たちも今年は東京消防庁を受けてる。僕だけ落ちて、後輩が受かる未来なんて見たくない。よし…」

「今年の目標は45点中45点をとること。圧倒的に、僕が勉強して合格すれば良い。」

こんな発想で勉強を開始し、浪人生2年目がスタートしていきます。その後、予備校に通い始めることになったのですが、やはり交通費にもお金をかけるわけにはいかず、毎日30分ほどの自転車通学をして、学校に向かいました。朝8時の開校時間〜22時の閉校時間まで、僕が1番初めに学校に入り、僕が最後に退出するという生活を約8ヶ月間ほど送ることになりました。

当時使っていた書籍
※画像サイズ調整できず、大きいまま載せてます

予備校の名前は出しませんが、僕がお世話になった学校では、「講師が教える」ってスタイルではなく、動画講義を見て「自主学習をする」ってスタイルの学校でした。正直、最初はどう進めれば良いのかわかりませんでしたが、とにかく手探りで「45点を取るためには何をするのが良いか?」ということを毎日考えて勉強していった結果、今までの僕では考えられないような生活をおするようになっていました

【当時の生活スタイル(バイトなしの時期)】

06:00 起床
07:00 身支度
08:00 予備校到着
11:00 復習
12:30 お昼(苦手ノートの見返し)
13:00 参考書
22:00 学校終わり
23:00 帰宅
00:00 夕食(苦手ノートの見返し)
01:00 トレーニング
02:00 トレーニング終了
02:30 就寝

【当時の生活スタイル(バイトなしの時期)】

06:00 起床
07:00 身支度
08:00 予備校到着
11:00 復習
12:30 お昼(苦手ノートの見返し)
13:00 参考書
16:00 学校終わり
16:30 帰宅
17:00 バイト
23:00 バイト終わり、トレーニング開始(苦手ノートの見返し)
00:00 トレーニング終了、帰宅
02:30 勉強、就寝

当時使った書籍たち
※画像サイズ調整できず、大きいまま載せてます

多いときで、1日14時間〜16時間くらいは勉強していました。でも、実は試験直前に行った公務員試験予備校のTACや東京アカデミーのテストではC判定の結果で、何度も心が折れかけましたが、なんとしても「人生を変える」つもりでやっていたので、絶対に途中で折れることはありませんでした。なんなら、悔しいといった感情も全て押し殺して、もっといい点数が取れるようになるための材料にしていました。

試験の座席表

そして、ついに、試験本番。教養試験はここまでの勉強の成果が出たので、非常に良い手応えがありました。しかし、小論文試験、この年は結構イレギュラーなテーマで少し焦りましたが、なんとか書くことができました。面接試験では、ひさがガクガク震えながらも、気合いを入れて話した結果、物おじせずに自分自身の話ができたので、あとはもう自信を持って待つことにしました。

「こんだけやって、不合格なら、もう適性がないってことで割りる。」

そういう思いでした。

2年目:東京消防庁5回目 圧倒的合格
 

合格通知

試験結果が出るまで1か月ほどの時間がありました。正直、この期間は生きた心地がしない時間を過ごしていたように感じます。試験結果の開示日、東京消防庁は午前10時ごろにこの結果を通知するようになっていたので、恐る恐る合否通知のページを見ました。

「合格」

この文字を見た瞬間、雄叫びを上げたことは今でも覚えています。ようやくこの2年間の頑張りが報われた気がしました。ここで書いてることは、はっきりいって東京大学に合格するみたいな、多くの人から見たらたいそうなものではないですが、僕の人生においては本当に宝物を見つけたかのような瞬間だったのです。すぐに両親とお世話になっていた消防団の先輩などにも連絡をして、合格の旨を伝え、周りの方々にも支えられていたことに本当に感謝することができたと思います。

得点:38/45点
結果:合格
受験者数:4,572 人
最終合格者数:407

試験倍率:11.2倍

就職活動 最終結果

東京消防庁と警視庁にダブル合格

では、ここで試験の最終結果を発表します。

【試験結果】

東京消防庁  1類1回目 最終合格
警視庁    1類1回目 最終合格
川崎市消防局 大卒程度
 最終合格
神奈川県警  大卒程度 2次試験 不合格

神奈川県警については、いまだになんで不合格だったのかということがわかりませんが、浪人生2年目の年に受験したほとんどの試験に合格することができ、本当に嬉しかったです。

実は、この経験を通して、「努力することの楽しさ」「できないことに挑戦していく楽しさ」「勉強の面白さ」を理解することができたと感じています。

合格後は、周りの視線が変わった

当時、僕が教えた数学の説明書き

実は、東京消防庁の試験に合格するまでの期間、僕は周りの人たちから「バカ」扱いをされることにちょっと憤りを感じていました。確かにそうではあるかもしれないけど、それでもなんか悔しさがありました。でも、東京消防庁の試験に合格してからは、むしろ勉強について聞いてもらえる機会が増え、周りの視線が一気に良い方向に傾いたことに気がつきました。

僕がちょっとだけ優越感を得ることができた瞬間です。

そして、こんな浪人生活での成功体験を通して、「勉強がつまらないもの」から「勉強が楽しいもの」に変化していきました。

消防士時代

東京消防庁へ入庁、消防学校へ

当時の同期と

2018年8月東京消防庁の試験を終え、浪人生だった僕はほぼバイトと筋トレしかしていない生活を送っていましたが、実は東京消防庁から早期入校に関する知らせがあったので、合格をしたその年の10月には学校に入庁することになりました。

訓練中の様子

学校生活は、正直クソほど楽しかった。一見すると、「消防学校ってきついんでしょ?」「大変なんでしょ?」って思われがちですが、僕はむしろこの時期は本当に楽しかったと思っています。良い同期や助教、教官、指導員の方に恵まれていたんだと思い、本当に感謝してます。

某消防署へ配置

当時の先輩や上司と

消防学校も終了し、いよいよ現場での仕事になります。本当に一歩間違えば、仲間も自分自身の命も危ない現場です。正直、配属当初は指令で起きることができるか心配で仮眠を取ることすらできないくらい緊張をしていました。また、消防署では、「消防学校で訓練してきたことがまるで通じない…」という現場と学校でのギャップにもストレスを感じていたんだと思います。

しかも、追い打ちをかけるかのように、僕の直近の先輩が大きな事件をやらかして、まさかの8人が服務観察課に事情聴取をされる事態となり、同じ当番の中に残った下っぱは僕だけでした。先輩がいない中では、現場で支持されるのはもちろん僕。そのプレッシャーはもちろん強くなって、少しづつ自信をなくすようになっていった時に、別の消防署から異動してきた同い年の先輩が僕のことを助けてくれていました。

下っ端の時にお世話になった先輩

先輩たちと飲み会で

この先輩たちと、1年ほど一緒に勤務することになったのですが、正直短い消防人生の中で1番楽しかったです。もちろん、訓練は朝4時ごろまでやっていましたし、先輩についていくので必死でしたが、面倒を見てくださったおかげで、消防署の仕事で困ることはほぼなくなりました。

本当に同い年の先輩としては頼れる先輩でしたし、飲み会などになれば気さくに誘ってくださって、朝まで飲んでいろんな話をしました。今でも、日本に帰ると一緒に飲んでくださるので、毎度連絡をしています。ただ、その中でも僕自身はいろんな葛藤を抱えていました。

一級建築士への挑戦

勉強中の様子

実は、この時に抱えていた葛藤の1つが、当番制の勤ポンプ隊員としての勤務を離れたいということでした。当時の先輩たちはとても良い方々でしたが、消防署の異動は半年に一度あるので、その先輩たちとずっと一緒に勤務するというわけにはいきませんでした。のため、他の方々からは、どうしても訓練以外の事務作業で嫌味を言われることや、別のことでも嫌な気持ちになるようなことを言ってくる方がいたため異動をしようと決意し、大学時代から建築学を学んできたこともあったので、資格をとって異動をしようと試みることに。そこで浮かび上がったのが、一級建築士でした。

確かに、難易度は高く、僕が苦手としていた「構造力学」などもあり勉強は難航しました。しかも、何より24時間の仕事明けに13時~22時までは勉強をしていたので、本当に眠気との戦いが続きました。ただ、仕事の都合で予備校にも通うことができませんでしたが、150万円の口座費を払っていたので、なんとしても合格したいと思い勉強していくことになります。

【当時のスケジュール】

06:00 起床
09:30 退勤
12:00 洗濯、トレーニング、アイロンがけ、出発
13:00 渋谷到着、勉強開始
22:00 勉強終了(カフェ閉店)
23:30 ご飯、帰宅

※この後に、少々生々しい現場の話しと、私が感じたことを綴ります。苦手な方は次の2年目の章までスキップしてください。

初めての心臓マッサージ

画像添付

消防署に出てからまもなく、先輩たちに支えられながらなんとか日々の訓練をこなしていた時に、それは発生しました。

指令「PA連携、〇〇救急、〇〇1匿名出場。〇〇区〇〇丁目〇〇番、〇〇方、意識なし。」

※PA連携とは、消防ポンプ車(Pumper)と救急車(Ambulance)が同時に出動し、連携して救急活動を行うこと。

PA連携の出場で、初めて心肺停止状態の傷病者を扱うことになります。今まで訓練用のダミー人形では散々やってきましたが、本物の人体に心臓マッサージをするのは初めてでした。現場についてから、すぐに傷病者の元へ駆けつけました。

僕  「隊長、容態観察を実施!」

隊長 「了解。」

僕  「隊長、呼吸脈拍なし、CPA、CPR実施!」

隊長 「了解。じゃぁ、星野と後輩Aが交代で心マ実施!」

僕  「了解!」


※CPA=心肺停止状態
※CPR=心肺蘇生法(心臓マッサージ、バックマスクでの人工呼吸等)
※心マ=心臓マッサージ

人体への心臓マッサージをしようとした瞬間、本物の人体に心臓マッサージをすることに少しだけ恐怖を感じましたが、「訓練通りにやれば大丈夫!」って自分自身言い聞かせて、心臓マッサージをした瞬間でした。

「バリバリバリバリっ」

胸骨の周りにある肋骨が折れる感触が手に伝わってきて、正直はじめは気持ち悪かった。でも、目の前には心肺停止してる人もいるからこそ、本気でその人を助けないといけないと思い、必死で心臓マッサージを続けました。その後はすぐに救急隊が到着し、傷病者を引き継ぐことになりましたが、この経験から、改めて人の命を救う仕事が、本当に尊いものであると感じることになりました。

初めての縊首の現場

画像(ロープ)

その後、僕自身の人生を考えさせられるようになった、消防士としての現場がありました。それは、「縊首」の現場での経験です。

指令「PA連携、〇〇救急、〇〇1匿名出場。〇〇区〇〇丁目〇〇番、拡声を切断。〇〇方、縊首。」

※縊首=自ら首をロープで括り亡くなること

実は、あまりないと思っていた現場の想定でしたが、私が勤めていた消防署付近では、生活保護で暮らしている方も多かったため、現場にいた2年半の中で、3件も同様の事故が発生していました。また、消防学校でも同様の事案を想定した話が指導員の方からもあったのですが、その時に言われたことを思い出します。

「縊首の現場では、絶対に人の目を見るんじゃない。特に、目を開いている傷病者の場合、忘れられなくなるからな。」

隊長と一緒に現場に行くと、そこには宙吊り状態の傷病者がいました。初めての経験だったこともあって、私はその現場の状況をしっかりと見ておこうと思い、目を上げた瞬間、その傷病者と目があってしまうとにとになります。そして、その一瞬で、こんなことを感じました。

「お前は、本当に幸せなのか?」
「お前は、なぜ生きてるんだ?」
「お前は、どうしてここにいる?」

正直、僕自身もびっくりした。こんな一瞬の間に、何かを問われるなど思っていなかったから。でも、実はこの体験が私自身のキャリアを大きく変ることになる1つのきっかけでした。

公務員2年目

組織人としての葛藤と苦悩

当時の消防署の宴会

消防士の2年目の年、僕は消防署での人間関係とキャリア選択に悩み始めることになりました。決して悪口を言いたいというわけでないですが、実は僕の消防署は東京消防庁の中でも災害件数が多く様々なことを経験できる消防署としても有名だった反面で、不祥事なども絶えない消防署でした。

そのため、この宴会以降は2か月に1回の異動があり、「本署→出張所A→出張所B→本署→出張所C」というように異動をし、しかも同じ当番部では内部にも配置をされたことで、すぐに消防署での人間関係がわかってしまうという状況にありました。

「どうやって仕事をしていけばいいのか?」
「どうやってうまいことポジションを作ろうか?」
「今までとは雰囲気も違うし、どう接すれば良いか?」
など

同時にいろんなことを考え始めた途端に、思ったことがあります。

「あ、なんかこのままじゃやばいかもしれない。なんか定年まで仕事をするビジョンが完全になくなってしまった。」

初めての救出活動

画像添付

実は、僕が勤めていた消防署は、東京消防庁の中でも有数の大きさを誇る消防署でもあったので、過去には600m2をこえる火災が起こるような場所だった。そんなある日、初めての救出活動を行うことになります。

指令「〇〇区出火報、〇〇区〇〇丁目〇〇番、〇〇1、〇〇救助匿名出場、〇〇化学、〇〇1任務は安全管理。なお、通報者情報、白煙を確認。終わり。」

しかもこの火災、僕の勤めていた消防署から最も近い場所で、「救助指定中隊」として向かうことになった。現場に到着すると、建物は共同住宅、建物からは白煙を確認することができた。ロビーにいた受付の管理人も気がついてないようで、火災があったことを知らせて、白煙が見えた階に向かった。そこでは、天井に向かって白煙が充満し、口元を抑えないと少し咳き込むような感じだったことを覚えてる。

画像添付

先着隊だったこともあり、地上階からホースを伸ばして火災発生の部屋に到着し、エンジンカッターでドアを開けると、中から黒煙が噴き出してきた。その瞬間、先行小隊の小隊長が叫んだ。

先行小隊の小隊長「〇〇号室入り口から3mほどの地点に252確認。検索員2名にて救出開始。」

※252=要救助者

先輩隊員と一緒にすぐに面体を着想し、検索体系をとって成人男性を引っ張り出してきた。中に252が残ってる可能性もあるので、すぐに1小隊長に引き渡し、内部検索を開始した。初めて、面体をつけて人を助け、黒煙がある中での活動になりました。初めて、火災の中から人を救出してきた瞬間、割と冷静でいられた自分自身と、なんでこんな火災になってしまったんだろうといった複雑な気持ちでいっぱいになった。

一級建築士試験に不合格

諦めモードの夕食は「Amazon primeの映画と缶チューハイ」

さらに、ちょうど建築士の試験勉強を始めてから1年経った頃、一級建築士の試験を受験しましたが、結果は「不合格」。合格まで残り5点という惜しい結果に終わってしまい、さらに気持ちは落ちていきました。当初は、2年間で150万円の学習費を払っているから「まぁ来年頑張るか…」って感じでしたが、やっぱり試験結果を見ると悔しくなります。

そして、試験までまた1年間の勉強が始まると思うと少し気が重くなってきたことで、僕の堕落生活に突入していくことになりました。夜になれば、ご飯とお酒を買って、毎晩晩酌をする日々。安いワインのボトルを1人で映画を見ながら1本飲んでいた日もありました。でも、こんな生活を2か月も続けているとさすがに思います。

「このままじゃ、やばい。何かしないと。」

違和感を感じた瞬間

画像

後輩の面倒も見始めるようになって、1年半が経った頃、また火災が発生することになります。しかし、この時から、何か以前と違う違和感を感じ始めることになった。それは指令が入って間も無くの時だった。

指令「ピー、ピー、ピー。火災予告〇〇区〇〇丁目、火災入電中。」

小隊長「キタキタキタキタキタキターーーーーーーーっ!」

指令「〇〇区出火報、〇〇区〇〇丁目〇〇番、〇〇1、〇〇救助匿名出場、〇〇化学、〇〇1任務は安全管理。終わり。」

そう、実はこの小隊長の言葉に違和感を感じてしまったことがありました。本来、消防士の仕事ってない方が住民の方々のためだとは思いますが、火災や救助活動などの指令がなければひたすら事務仕事をしているのが消防士です。現場活動をしてなんぼの仕事でもあるからこそ、現場に出ていた僕自身もこのアドレナリンを出して現場に向かうってことは理解できるんです。ただ、この時の僕は全く逆で…

「出火報か。しかも、黒煙確認か。水利から中経体系…後輩の安全確認して…車両点検して事故防止の徹底かな。場所は共同住宅っぽいし、ホースの吊り上げも考えて動こうかな。」

なんて冷静に考えて、今日の活動をどう進めていくのかを考えていたんです。現場に行けば、本当に自分自身の命も危なくなるからこそ、冷静でいることは非常に重要なとこだと考えています。しかし、その反面で、この現場活動が終了したのちに感じたことがありました。

「あ、俺って他の人に比べて現場出場時の アドレナリンが出てないんだ。もしかしたら、この仕事って、あんまり向いてない仕事なのかもしれない。」

2年間も就職浪人をしてまで勝ち取った仕事だったのに、自分自身が本当にやりたい、情熱の持てる仕事ではないのかもしれないと思ってしまったんです。そんなこともあって、徐々にキャリアチェンジ向けた意欲が高まっていくのでした。

ブログを始める

当時のブログ作成画面

ブログを始める前に、まずは読書をすることからスタートしました。当時は、「まこなり社長」「マナブ」「中田敦彦」「メンタリストDaigo」さんたちのようなビジネス系発信者の方々が少しずつ出てきたような感じの時で、そんな人たちの影響を受けて様々な本を読み出すようになります。

【当時読んだ本】

嫌われる勇気            「岸見 一郎」
頑張らない働き方          「ピョートル・フェリクス・グジバチ」
ハーバード大学の心理学講義     「ブライアン・R・リトル」
悩む力               「メンタリストDaigo」
人を操る文章術           「メンタリストDaigo」
ザ・コピーライティング       「ジョン・ケープルズ」
超集中力              「メンタリストDaigo」
超習慣術                「メンタリストDaigo」
超影響力              「メンタリストDaigo」
時間革命              「堀江貴文」
ブサイク解放宣言             「マンボウやしろ」
未来探究2050              「東京大学未来ビジョン研究センター」
本気の副業術            「AKIO BLOG」
メモの魔力               「前田裕二」
超勉強術                「メンタリストDaigo」
スタンフォード式最強の睡眠     「西野積治」
0秒思考             「赤羽雄二」
コーチング・バイブル       「ヘンリー・キムジー ハウス等」
CEOコーチング          「久野 和禎」
ひとり起業の強化書         「天田幸宏」
ラファエル式最強の話し方        「ラファエル」

など

読書を開始してから4ヶ月余りの中で読んだ本の一部なのですが、かなりのハイペースで書籍を読む習慣をつけていました。

そして、僕ははこんなことを思い始めます。

「ブログで副業ができないか?いや、なんなら将来的には海外とかに行けるくらい悠々自適で自由な暮らしがしたい。」

このような経緯で、ブログを始めていくことになりました。元々理系の人間なので、文章を書くことは苦手でしたが、小論文試験や大学の時の学術論文などを書いてきたから、それなりに書けるかもしれないという思いつきからスタートすることになります。もう今は残っていませんが、当時僕が書いていたブログは…

【当時書いていたブログ】

・お料理ブログ
・ラーメン食べ歩きブログ
・筋トレ、サプリメント系ブログ
・自己啓発系ブログ

など

というように、実は結構いろんな記事を書きました。それも、1日3記事とか書いて毎日更新をしていたので、当時作成したブログの量だけでもおおよそ700記事前後は書いていたと思います。実際に、1ヶ月に5000PVくらいは集まっていたので、Googleアドセンスなどでの収益化も試みましたが、審査は通過することができたものの、入金されるほどの金額は集められなかったので、一銭ももらうことはありませんでした。

しかも、ちょっと怖かったのが、これらのブログを発信する中で、直属の料理好きな上司から

「そういえばさ、星野くんブログやってるでしょ?なかなかいろんな場所知ってるよね!実際に行った場所でラーメンのおすすめってある?今度行ってみたいんだよね!」

これを言われた時には、まさかとは思いましたが、上司がf知っているほどのブログを作れていることはよかったものの、何か注意されるのではないかとビクビクしていました。

徐々に堕落した生活し始めていたある日、僕は一冊の書籍と出会うことになります。

一冊の書籍との出会い

Amazonより引用:引用元
https://amzn.to/3JnwHY5

ブログを書き始めていた段階から、東京消防庁での将来のビジョンがなくなり、転職やキャリアチェンジについて考え始めるようになっていきました。しかし、求人サイトや転職エージェントに登録する中で僕自身が思ったことがありました。

「そういえば、まともに自己分析をやったことなかったな。」

自己分析をして消防士の面接に臨むのも民間企業と同じようにセオリーなのですが、転職ともなるとその内容をもっと深く知った方が良いし、「せっかくの転職やキャリアチェンジで後悔したくないよな…」と思ったことで、この書籍を探し当てることになりました。

この書籍では、最後のページに自己分析用のツールに繋がるQRコードがあり、メールアドレスなどの情報を入力すると100近くの質問が出てくるので、その質問に答えることで自分自身の強みのタイプや価値観が出てくるといったものでした。

当時の僕のストレングス(強み)

なんだか知っていたようで、知らなかった僕自身の価値観や強みが明確になり始めて、「自己分析ってちょっと面白くね?自分自身を知るのってこんなに面白いんか。」って感じた瞬間でした。そして、登録したメールアドレス宛にこんなメッセージが来ます。

「ギャラップの認定ストレングスコーチになりましょう!」

「なんじゃこりゃ?スポーツのコーチと違うの?」っていうのが僕の始めの印象でしたが、なんだか面白そうなので、ちょっとセミナーを聞いてみることにしました。

当時のセミナー開始前の様子

「なかなか面白かった。しかもスポーツのコーチじゃなくて、 ” 人の可能性をもっと引き出すためのコーチ ”  なんて仕事初めて聞いて興味持った。もっと知りたい。」

というのがセミナーに参加してみた時の正直な気持ちでした。そこから、ストレングスファインダーでのコーチングを行っている方に話を聞いてみたり、コーチをお願いしてみたりしながら、こう思った。

「これ活用して、俺も仕事してみたい。」

実はここまでに、転職のことは色々考えて、IT企業への先行申し込み、東証プライム市場の人材紹介会社、さらには東証プライム市場の建築設備会社などにも申し込みを出していたのですが、そこでの選考を中止して、「コーチという存在」で仕事がしてみたいと思ったのです。こういった経緯で、転職ではなく、途中から個人事業主へと切り替わっていくのでした。

公務員3年目

上司への報告

画像をつける

東京消防庁の場合、4月と10月のタイミングで異動期があるのですが、僕は入庁してから丸2年経った10月に退職の決意を固めていました。しかし、移動後に急に切り出すのは流石に人事異動などにも響く可能性が高いと思ったので、その年の11月の始めの勤務で上司に退職の意向を固めることにしました。

星野:「お疲れ様です。ちょっと話があるのですが良いですか?」

上司:「あ、あぁ、いいよ。」

星野:「あ、もしよろしければ、会議室でも大丈夫ですか?」

上司:「あ、あぁ、いいよ。」

(ガチャ)

星野:「異動したての時期で大変申し訳ないのですが、来年をめどに退職をしたいと考えております。」

上司:「え..あ…そうなんだ。どうして?」

星野:「消防士としての仕事では大切なことをたくさん学ばせていただいたのですが、もっと新しい挑戦をしていきたいと考えましたので退職の決意を固めました。」

上司:「あ…え…でも辞めてから何をするつもりなの?」

星野:「コーチングというコミュニケーション技術を活用して、人生に悩んでいる人のサポートをしていきたいと思っております。」

上司:「い…いやぁぁ、まだやめなくてもいいんじゃない?あと1年くらい…」

星野:「いえ、すでに決意は固まっておりますので、退職したいです。」

上司:「そうか…わかった、ちょっとまた1週間くらい考えてから…」

星野:「…」

というように、結構リアルな感じで、こんな話をしました。僕自身、事業計画などは全く決まっていませんでしたが、すでにこれをやって生計を立てていくってことだけは決めていたので、なんとしても押し返されないように話をしました。

適応障害

画像を添付

そこから2ヶ月間、実はとても苦しい時期が続くようになります。職場の先輩で、以前も同じ当番部になったことがある、もう10年近く消防士をしていた先輩と一緒の配置になったのですが、ここで事件が起こります。訓練中の災害対応方法で、意見の違いが出た時に口論に発展しました。

先輩「おい、そんなんじゃロープとコード絡まんだろ!手に持って八の字まきしてんじゃねーよ!」

星野「いや、だってここまで教えていただいたことなので、私はこれを採用していますし、実際ロープとコード絡まってないですし。(多少無理はしたけど…)」

先輩「うるせーよ!何もできないくせに、何いってんだよ!さっさと治せよ!」

星野「(ブチッ)ウッセーんだよ!黙って活動しよろ!ふざけんなよ!」

※ここで小隊長が止めに入る

そう、あまりにも理不尽かつ修正方法を教えない指導方法にブチギレてしまった。前々から口があまりよくない先輩だったので、勘に触ることがあったのですが、ついに日々の鬱憤と一緒に全て吐き出してしまったのです。(※今となれば、僕が唾を飲んで教えを貰えばよかったのかと反省してる部分もあります。)

ただ、この出来事をきっかけに、職場でのコミュニケーションが取りづらくなり、僕自身が他の先輩や上司をできるだけ避けて、必要以上のことは話死をしないように仕事だけを淡々とこなす日々を送るようになりました。実は、ここまでにもいろんな苦しいことがあったのですが、何も言い返すことなく、感情を全て押し殺して仕事をしてきたため、ここで僕の中での何かが切れてしまっていたのです。

2021年1月12日、僕は朝から体調がよくない状態で朝食を食べて仕事に向かったのですが、ちょうどお昼のタイミングで食べたものを全て戻してしまいました。明らかに体調が悪かったので、その日は交代要員をお願いして帰宅することに。

星野「(何か悪いものでも食べたわけでも、生物食べたわけでもないのに何かおかしい…)」

2021年1月15日、ついに布団から起き上がることが難しくなるくらい、体に力が入らず、完全におかしくなっていることに気がつきました。

星野「(あ、これ完全にダメなやつだ…病院行こう…)」

ここで初めて、精神的におかしくなっていることに気がつくことができました。僕自身もこんなことは初めてで、自分自身の忍耐力は比較的高い方だとは思っていましたが、まさかこんなになるとは…。病院での診断結果は「適応障害」。この日を境に、僕は病気休暇を取ることになります。

資格取得

コミュニケーション技術の講座のメモ

「適応障害」って精神的なものだからこそ、ずっと鬱かのようになっていると勘違いしている方がいますが、実はそうじゃ無いです。「特定の環境や人と一緒にいる場合に発生する」ってことが多いので、日常的な行動については割と普通にこなすことができる状態。

退職までの期間も短いし、少し焦りもありましたが、次のキャリアに向けて資格取得をすでに始めていました。対話業で仕事をしていく上で必要だと思ったので、コミュニケーション技術とその知識に対して「150万円」ほどの自己投資をして、学ぶ環境を作りました。

「150万…高いな…」

って正直当時は思いましたが、僕にとっては結構いい自己投資だったと思います。車もローンで買っていましたが、車買うよりもこの資格を取得して良かったと思っています。なぜなら、この時に「自分自身の感情を理解すること」「深く理解をするための環境」「気づきの習慣」を身につけることができたのは、今になっても非常に大きな能力としての財産となっています。そして、いよいよ退職の時期が近づいてきました。

退職

退職後に初めてプロフィール写真を撮ってもらった時
(撮影者:https://www.instagram.com/_junia_portrait/

そして、適応障害になりながらも、最終的にはなんとか消防署まで顔を出して退職辞令を受け取ることができるようになるまでに回復することが出来ました。僕はこの消防士としての経験を経て、本当に大事なことを学ぶことが出来たと思っています。

「法令解釈」
「現場での接遇」
「人の命の尊さ」
「社会人としての基本」
「仲間を思いやる気持ち」
「人の命を守る仕事の重要性」
「行政の人間としての住民の方々との接し方」
など

書き出すと、キリがなくなってしまいますが、本当に多くのことを学ぶことが出来たからこそ、僕を採用していただいた東京消防庁には本当に感謝しております。そして、この学びを胸に次のキャリアへ向かうことになるのですが、「ここから本当の試練の始まり」でした。

退職後

1年目 コロナで隔離

僕の隔離施設となった「品川プリンスホテル」周辺

退職辞令を受け取り、「ここからようやく営利目的でのお仕事をすることができるぞー!」と意気込んでいたのですが、すぐに体調を崩してしまいます。しかも、熱は39.6℃。しかもこの時は、新型コロナウイルスの影響で、日本国内でまだ非常事態宣言などが出ている状態。まさかとは思いましたが、そのまさかでした。

病院「はい、じゃー次の方、星野さーん。今日はどうされました?」

僕  「実は、発熱があったので、新型コロナウイルスの検査を受けにきました。」

病院 「わかりました。じゃぁ、熱も再度測って、検査してみましょう。」


━━━ 検査後 ━━━

病院 「お疲れ様でした。検査結果ですが、しっかり陽性出てますね。では、保健所に連絡していただいて、隔離施設などの確認をお願いいたします。」

僕  「あ、了解しました〜。」

って感じで、退職早々にホテル隔離となり、約1週間ほどの時間を品川プリンスホテルの小部屋で過ごすことになったのです。パソコンなどは持ち込みができたので、ホテルで仕事をすることにしたのですが、ずっと缶詰め状態だったので、さすがに気が滅入って部屋の中で筋トレをして過ごしました。

1年目 資格取得1

認知行動コーチ®認定証

実はコロナウイルスの期間と時系列が被ってしまうのですが、わたくしが申し込んでいた資格取得のための短期講座があり、体調が少し優れない中で、このような資格取得をしていました。特に、対話技法の中では「ポジティブ心理学」「コーチング心理学」などが含まれるケースが多く、学術的にも学びたいと思っていました。また、この講座の中では「認知行動療法」についても触れることがあるので、カウンセリングの能力としても必要だと考え、この資格を取得することにしました。

実際に、今でも仕事の中でこの時の理論を使うことは多くあり、僕自身の保有資格としても見せやすかったので、全然アリな自己投資だったと考えています。

1年目 150万円掛けた対話トレーニング終了

トレーニング終了証誠書

その後、消防士を辞める前からトレーニングをしてきたコミュニケーション技術のトレーニングで、所定の104時間のトレーニングが終わって一区切りがつきました。このトレーニング期間を通して、次のような力の向上に役立ったと感じています。

・価値観の違う相手を「受け止める力」
・相手を「反映する力」
・思考の裏側にある「感情を読み解く力」
・相手の中から引き出すために「問う力」
・相手の「自発性を高くする力」
・視点を広げて「課題をクリエイティブ解決する力」
など

ただ、正直はじめはきつかったです。やったことないことが多すぎで、途中から自分自身に自信がなくなりかけましたが、これは今後の人生において必要な壁だと思って、踏ん張り、仲間に助けてもらいながらなんとか乗り越えることができたと思っています。

また、このトレーニングを通して、「人の感情を扱うこと」「マネジメント層の人と関わったこと」「」など初めて経験したことが多くありました。ここ今でも人のマネジメントを行うことに役立っていたり、30代以降のマネジメント層の方からの質問にもかなり応えやすくなったと感じています。

1年目 初めてのお客様

初めてのお客様

僕が「対話」を事業にしてから半年間、SNSでの発信活動やブログでの発信活動を行ってきましたが、うまく集客をすることが難しかったのがリアルです。そのような中で、「保険の営業マンは身内にも声を掛けていく」という営業スタイルをとっていたことを知り、僕と繋がりがあった人に数名声を掛けたところ、初めて有料でのお仕事を受けてくださったのが、友人のIさんでした。

僕 「今ね、対話を通して、人生の課題解決を一緒に行う仕事をしてるんだけど、もし良かったら受けてみてもらえないかな?」

I君 「いいよ。受けてみる。」

そう話をしてくれた彼自身もさまざまな課題を抱えていて、その課題を一歩づつ解決していくために、僕のサービスを受けてくれた。結果、彼は転職をして、役職付きでの新しいキャリアを手に入れることとなりました。

しかし、そううまくいくことだけではありませんでした。

1年目 税金で残高0円

お金がどんどん消えていく

個人事業主や起業ともなれば、やはり自分自身で集客ができなければ収入はなくなります。しかも、僕が理解していなかったもう1つの出来事がありました。それは「税金」です。

【初年度税金】

東京都某所の場合
住民税:64000円(4半期に1回)
国民健康保険料:40440円 (12ヶ月)
国民年金:16590円 (12ヶ月)
自動車税:36000円(年1回)

総計 976,360円

この5項目のみで、年間100万円近くなりますので、実は100万円の貯蓄って一瞬で溶けます。これ以外に毎月の生活費もかかりますので、結構な痛手ですよね。だから、僕の初年度の総収入額ではもちろん耐えられるわけもなく、リボ払いをしたり、税金の免除申請をして、なんとか乗り切ることになります。

それをしても、12月31日の時点での私の銀行口座はほぼ0円に等しい状態で、自分自身でコンテンツを売ってみたり、リボ払いをしながらの生活で耐え凌ぐ時間を過ごすことになりました。

詳しくはこちらの記事もぜひご覧ください↓

税金のチェックとその対策方法

1年目 地方消防のイベントに参加

消防職員の集まり

そんな中ではありましたが、なんとかチャンスを掴み取りたいと思う一心で、ある地方消防のイベントに参加することになります。実は、このイベントに参加する前から消防行政の中で示唆されてきた「ハラスメント問題」について関心を集める現役消防士の仲間と杏林大学の特別講師としても参加されたことがある先生と一緒に、このイベントに参加することで、「消防署のハラスメント問題を一緒に解決していきましょう!」という意気込みでイベントに参加したことがありました。

【目的】
ここで地方消防の方々との接点を作り、一緒になってハラスメント問題を解決していくこと。

実は、某大学教授との研究論文も同時並行で進めていた関係で詳しくお伝えすることができないのですが、この翌年には消防署での人材研修こぎつけることになります。

1年目 講師業開始

授業中の様子

そんな中、某消防官採用試験のオンラインスクールにて、講師業をしつつ対話事業を進めていくことにしました。当時は、インスタグラムから連絡をもらって、せっかくならやってみたいと思ってこの事業に参加していくことになります。でも、意外と僕にはあっていたようで、講師業をしている時は消防士として初めての心臓マッサージをした時と同じように、目の前の学生に対して関わることができることを徐々に実感していくことになります。

たままた会った受験生達ととオフラインで

初めて自分自身の経験がしっかりと生きることがわかった経験でもあり、消防士になることを諦めずにやって良かったなって思いました。また、これと同時期に対話事業についても徐々に収益を上げることができるようになっていきます。

2年目 英語の独学開始

参考動画:https://youtu.be/XMQDfj-yEXI?si=vwzOdrrhYtilLgpt

実は、ここまで見ていただいた方ですとお分かりのように、僕は消防士の試験を通して勉強の方法がわかるようになった途端に、勉強に対する意識が変わり、勉強することが好きになりました。そのため、ずっとやりたかった英語学習を始めることになります。

実は、消防士を退職するときに考えていた1つのことがあります。

「消防士としては経験できなかったであろうことをやる。」

ということは、そうです。海外でビジネスをしてみたいという思惑もあったので、少しづつ余裕がで始めた段階から英語学習を取り入れることにしました。僕が当時やってきた方法は主に、ルール作りをして英語のシャドーイングをするというものです。

【例】

・朝5時に起床して、英語学習から毎日をスタートする
・ジムでのトレーニング中は英語のシャドーイング音源を流す

など

2年目 名古屋での出会い

名古屋での食事会

当時、僕がSNSの発信をしている中で可愛がってもらっていた先輩から「名古屋で経営者の方紹介するけどくる?」と誘っていただいたので、すぐに向かう連絡をしました。確か、3日前くらいに連絡が来たような気がしますが、僕からすれば関係ありませんでした。何よりもこの時期は繋がりを作って、「ご紹介でも私の方からできることでもなんでもやってやるんだ!」というマインドが強かったです。

「実は、この先輩との出会いが私の運命を変えることになっていきます。」

夜行バスに揺られながら名古屋に到着すると、初めて降り立つ場所に少しだけ胸が高まりました。「あ、初めての場所ってワクワクするな!」って感じたことを覚えていますし、何よりも信頼している先輩からのご紹介であれば面白い話が聞けると思っていたので、勉強する気持ちも兼ねて、本当に良い名古屋出張ができたと思います。でもこの時、実はある質問をしている先輩を見て気がついたことがあります。

先輩  「〇〇さんの、幸せの定義ってなんでしたけ?」

経営者 「Wow!って世界をみんなと一緒に作ることだよ!」

僕   「(心の声)僕の幸せの定義ってなんなんだろ…?」

そう、自分自身のことを1番知っているのは僕だと思っていたのに、幸せの定義が何かを聞かれたときに即答出来合いと感じた僕がいたのがとても悔しかった。だから、僕はこの後の先輩の一言で、人生を動かされることになります。

「人生って、やっぱ行動力だよね。すぐ行動できる人の方がチャンス掴めるから。」

これを機に、本格的に海外への移住をすることを心に決めました。

2年目 消防署での人材研修

研修のアンケートの一部1

昨年のイベントでの繋がりから、ついに消防署での人材研修に漕ぎ着けることができました。これは消防署の中で調整してくださる方々の協力あってこそだと思うので、本当に感謝しています。研修の内容についてはまだまだ改善できる部分があると感じたことは確かですが、限られた時間の中で伝えることは伝えられたのではないかと思います。しかし、その反面で、厳しい意見もいただくことができました。

研修のアンケートの一部2

アンケートでは、「今回の研修に良い影響があるとは思えない。」「以前と考え方が変わった。」など、ネガティブな意見も、ポジティブな意見もあり、非常にリアルな声をいただけたことは良かったと感じています。そして、組織の中に前むきに考えている方が多くいることも実感することができました。しかし、この研修はこれで終了となりました。また、その「半年後」「1年後」「2年後」と連続して、ハラスメントによる処分の案件が出てしまったことは、本当に悲しい気持ちともっと良い研修ができたらという悔しい思いがあります。

2年目 久しぶりの海外

先輩と空港で

名古屋でお世話になった先輩から、ある日声がかかります。

先輩 「今度タイに行くんだけど、もし良かったらリョーチンもいく?」

僕  「はい!いきます!いつからですか?」

先輩 「12月の頭くらいかな!」

僕  「了解です!」

「人材研修」「対話型支援サービス」など、仕事に取り組まなければならない反面で、もっと消防士としては難しかった世界の中でいろんな経験を積みたいという思いがあったため、ここでもすぐに返事をして、久しぶりの海外旅行(というなのワーケーション)に行くことになります。

※ちなみに、僕は格闘技もやってるのでタバコも吸ってないです

タイについて早々、異国の地に心が躍りました。普段では見られない風景どころか、タイでは日本で禁止されているものが売っていたりもするので、初めての景色がとても新鮮だったことを覚えています。世界に行くと、こんなにも違う世界があるのかということに驚きを隠せませんでした。ただし、これを見て思ったことがあります。

「価値観って、人によって本当に違うんだな。」

もちろん、僕自身は対話資格取得を通して、人それぞれの価値観が違うことって知っていましたし、日常的にもそれを感じることはありました。しかし、海外ではそれが法律ごと変わってるのが現実であり、働き方だってまるで日本とは別物です。だからこそ、もっと偏見を持たず、フラットに多くの物事を見ることって大事なんだなって感じた。

海辺で仕事

そして、旅行とはいえ日本での仕事もあったので、観光をしつつ仕事をしながら旅を楽しむという選択をしました。いわゆるノマドワーカーです。いろんな人と話し、価値観を共有して、新しい学びとなるこの時間が僕にとっては最高でした。先輩からは、とんでもない無茶振りをされたり、移動の足がなくて1時間くらい歩いたこともありましたが、そんなことも含めていい思い出です。

ドミトリーで仲良くなった仲間とそのタイ人家族と

これらの経験を通して、改めて海外で生活することの楽しさを知り、本格的に海外への移住を考え始めるようになります。

3年目 海外への準備

海外出発前の博多駅

タイから帰宅して数ヶ月間、ここでは狂ったように仕事をしていたように感じます。なぜなら、本格的に海外への移住を考えてお金と仕事を作ろうとしていたので、毎日16~18時間くらいは仕事していたと思います。しかし、思うような結果は出ず、いまいち準備不足は否めませんでした。

しかも、英語学習もあまりうまくいかず、語学を覚えることに対しての苦手意識が強かったように感じます。ただし、それでも朝5時に起床して、英語を勉強して、トレーニング中に英語のシャドーイングを止めることはありませんでした。

そして、ついにその時はきます。またあの先輩から連絡が来ました。

先輩 「リョーチン、タイに移住するんだけど、もし良かったらくる?」

僕  「はい!いきます!いつからですか?」

先輩 「10月の頭くらいかな!」

僕  「了解です!(あと1ヶ月か…)ちょっと11月の半ばまでオフラインの仕事があるので、終わり次第向かいます!」

そう、またしても、この先輩の一言で海外に行く決意をし、次は本格的に長期で移住することになりました。

3年目 海外移住

移住前の福岡空港で

ついに、海外での生活が始まります。前回もタイには来ていたので、なんとなく飛行機の乗り方や必要なことなどは頭に入っていますが、それでも初めての海外生活で、1人で飛行機に乗るのはなんとなく不安がありました。特に心配だったのは、「イミグレーション」です。まだまだ英語が流暢に話せるわけでもないし、「英語が聞き取れなかったらどうしよう…」と思って不安になっていました。

無事入国

7時間ほどのフライトを終えて、無事入国。ここまでが1番緊張しましたが、入国してしまえば、不安はどこかに消えて、やる気に満ち溢れた僕自身がいました。

「よし、やったるわ。頑張るぞー!」

道中で出会った青年の旅人と

道中では、日本から旅をしていた青年と出会い彼とバスの中で話をしていると、キャリアに悩んで色々考えたいことがあって今回はタイに来てるとのことでした。

旅人 「なんか仕事とか、キャリアとかって迷っちゃったんですよね〜…」

僕  「いや〜、わかるよ。僕は消防士やってたんだけど、人間関係とか夜寝れないとか結構大変だったもん。でもさ、こうやって自分自身を振り返る時間を作ってるのって素晴らしいと思うよ。しかも、僕は1人で旅に出るってあんましないしね!」

旅人 「確かに。なんか大学生の頃から東南アジアを回っていたりとかしたんですけど、新しい感覚を掴むために今まで来なかったタイに来た感じなんですよね。こうやって考えると、感慨深いものがありますよね!」

なんてたわいもない話をしていたんだけど、ちょっと彼のことが羨ましくなった。僕ももっと若いうちから旅をすれば良かったなってね。でも、これからでもまだまだできるよねって自分自身に言い聞かせながら、彼との別れになった。

3年目 居候生活スタート

スタートは畑仕事から

ここから、ついにタイでの生活が始まったのですが…ここからがすごかった。先輩が農家をやるって話になり私が到着する前から畑の整備をしていたらしいんだけど…

先輩 「これさ〜、まじ大変だったんだよね。1,600㎡の畑の草むしって、牛糞100kg、米糠100kg、鶏糞100kgを混ぜて引いて、ビニール貼って….やばかったわ!」

僕  「….やばっ!」

仕事終わりのゆ夕日

そう、先輩もスタートアップの段階で、大きな重機も持っていないから、小型の畑用器具と手足を使って、この土地を耕していたらしくて、正直よくわからない状態でした。ただ、日中の畑仕事が終わる頃になると見える夕日が、めちゃくちゃ僕らの疲れた体を癒してくれていたんですよね。

僕  「疲れましたね〜。」

先輩 「そだね〜。」

僕  「てか、ここめちゃくちゃ夕日が綺麗でちょっと感動しました。」

「仕事場所を占領された…」

畑仕事が終わると、そこからは僕自身も仕事。ただ、当時は机も椅子もない家にいたから、僕の仕事場所はこのアイロン代の上でした。ここで、資料を作ったり、キャリア相談の中での書類添削を行なって、必要があればここからZoomでのミーティングもやってました。ただ、一緒に暮らしていた猫たちがいると、いつもここ占領されて仕事の邪魔されてたので、仕方なく猫たちと遊ぶ時間も作ったりしてました。

僕 「ま〜たお前らか。も〜、一旦休憩して遊ぶか。」

同居人たちと

そして、猫たちまでは良かったのですが、実はこの家には他にも同居人が「5人」いました。初めは驚きましたよね。

僕   「え、この家何人で住んでるんですか?」

先輩  「俺と、タイ人5人、あと猫2匹。」

しかも、この中にいたレディーボーイの面倒を私が見ることになっていきます。

3年目 レディーボーイ

買ってあげた服一式

ある日、突然先輩から呼び出しを受けます。

先輩 「リョーチンって、人を助けるのが好きだったよね?」

僕  「人を助けるのは大好きです!」

先輩 「よし、じゃぁ、リョーチンが初めて海外で人を助けるミッション、レディーボーイをお世話しよう。しかも、彼IDカードがないらしいから、一緒にIDカードも取りに行ってあげよう!」

僕  「…..?!」

はい、僕はこの時点で、頭の中が混乱していましたが、唯一分かったことは、一緒に居候をしていたレディーボーイを助けるってことだけはわかりました。しかも、彼は複雑な理由からIDカードを持っておらず、国籍不詳でタイに住んでいたらしいので、一緒にそのIDカードの取得も助けることにしました。

僕        「IDカードの申請っていくらくらいなの?」

レディーボーイ  「50,000THB(当時の日本円レートで約20万円)」

僕        「…..?!」

正直、まだまだ仕事の軌道に乗っているかと言われれば微妙な僕からしたら、相当な痛手でしたが、IDカードを持っていなければ、アルバイトすらできないので、彼と相談してアルバイトのお金で少しづつでも良いから返金をするように約束をしました。ただ、ここで事件が起きます。

1000匹のカエルがやってくる

レディーボーイとその周りのタイ人たちから告げられたことがあります。

「私たちでカエルを育てて販売するビジネスをやる。」

なかなか衝撃的でした。急にカエル用の飼育場所を作るために、自分たちで資材を拾ってきて、屋根付きの飼育場所を作り、水を張って飼育し始めたのです。さすがに、先輩も「なにこれ!?」って驚いていましたが、まさかまさかです。ということで、ここからは、先輩1人、タイ人5人、猫2匹、カエル1000匹とのシェアハウスが急にスタートすることとなりました。

荷物整理時の畑

朝は5時になるとカエルが鳴き出すので,その声て起きていたことを覚えています。ただし、まぁそう上手く行くことはいくことがなく、実際には途中でこのビジネスを頓挫することになるのでした。しかも、せっかく畑を耕してきたのですが、急に土地の所有者から出ていくように言われてしまい、急に畑のビジネスも頓挫してしまう事になりました。

先輩 「リョーチン。事件だ。畑

終わり。もうやめて欲しいって言われて1週間以内に荷物とかも引き上げるように言われたわ…」

僕  「え!?  まじですか!?」

3年目 公務員のキャリアサポートをスタート

HPのトップバナー

農業ビジネスの頓挫から、少し自分自身の時間が作れるようになったので、ここから本格的に自分自身のビジネスをスタートしていく事になります。

僕 「ここからコミュニケーションを活かした仕事ってどんなことができるかな…?」

僕 「考えてみれば、いろんな現役消防士の人とも会ってきた中で、キャリアに悩んでいる人って多いよな…実際に、僕自身もそこに悩んできたし…」

僕 「だけど、辞めたいと言いつつも公務員を辞められない人って、たくさんいる…どうせ僕が助けられるなら、同じようにキャリアに悩んでいる人を助けてあげたい…」

僕 「じゃぁ、面接とか書類の経験はあっても、エージェントとしての現場経験はないから、公務員からエージェントになった人と一緒になって、僕が方向性や行動を促進、エージェントに現場のリアルな情報と企業とのやりとりをやってもらえれば…」

僕 「….いけるかもしれない!いや、いけるとかじゃなくて、そういった人たちを僕自身が助けたいって心から思うことができてる。よし、これをやろう。」

このような経緯から、僕は「公務員特化型の転職・キャリア支援サービス」を展開することにしました。ただし、問題がありました。

僕 「外注するお金がない!よし、HPは自作して、SNSなどからいろんな人に知ってもらおう!」

ということで、消防士の時から積み上げてきたブログでの「ライティング技術」、ブログの立ち上げで積み上げてきた「簡単なプログラミング技術」、資料作成などで培ってきた「資料作成能力」を活用して、1からHPを作成する事にしました。

HPはこちら

消防士、警察官、公務員から民間企業への転職支援型キャリアコーチング|レスキャリ消防士、公務員の転職支援キャリアコーチング|レスキャリ 消防士、警察官、公務員から転職などのキャリア選択を考えている方向けにキャリアコーチングを提供し、転職軸となる「キャリアビジ on-coa.com

3年目 タイ語の勉強を開始

タイ語クラスの初級

「仕事は大変だし、まだまだ上手く波に乗れていないけど、それでもタイにいるならタイ語も学ばないといけんな…」と考えた結果、タイ語のクラスに通うことを決めました。時間的には週1回2時間のクラスなので、そこまで大きな打撃は受けませんでしたが、僕にとっては結構挑戦的な取り組みでした。なぜならば…

「圧倒的な語学習得の苦手意識があったから。」

今でもまだまだ流暢に話すことはできないですし、英語の方が話しやすいのですが、この経験を通して学んだことがあります。

「語学を学ぶということは、私がお世話になる地域へのリスペクトの形の1つである。」

語学を学んだ仲間たちと

実はこれを感じたのは、海外に出て、語学を学び、その地域のコミュニティーに入っていく中で、「外国人が日本語で挨拶してくれたこと」にありました。皆さんも、きっとこんな経験をしたことがあるのではないですか?

海外から日本に来た外国人の人が、一所懸命に日本語を話して、言葉を伝えようとしている姿を見て、「なんか嬉しくなる。頑張ってほしい!」といった感情です。これ、僕らが海外に出た時も一緒なんですよね。海外から来た人が自国の言語を学んで、話している姿を見て「リスペクトを感じてもらえる」というのが僕自身の体験からわかりました。

だからこそ、今後も継続して語学を学び、マルチリンガルになることが私の1つの目標です。

3年目 近代消防社様から出版

書籍はこちら

そして、そんな中で語学学習や農業ビジネスと並行して進めていた書籍がついに発売となります。この書籍は、僕が苦い思いをしつつも東京消防庁に合格した経験を活かして、消防職員の皆さんであればご存知かも知れないですが、「近代消防社」様より出版をさせていただきました。しかも、塾の方のご協力もあって、『Amazon書籍ランキングのカテゴリー別1位』にも選んでいただくことができました。

これは本当に僕にとって大きな経験となりました。初めての書籍だったので時間もかかりましたし、かなり苦戦した覚えがありますが、編集者の皆様、そして近代消防社の皆様、デザイナーの皆様、塾関係者の皆様、近代消防社への推薦をいただいた元消防士の方、多くの方のおかげでこのような素晴らしいものを作り上げることができたと感じています。

かなり情報量が多く、消防士としての目線から作成をしているので、もしご親族に消防士になりたい方がいらっしゃれば、おすすめしてくださいね!

完全攻略 東京消防庁の消防官採用試験 小論文・面接試験編 amzn.to

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4年目 公務員のご相談者様が増え始める

ご相談中の映像

「公務員特化の転職・キャリアサポート」のHPを作成し、SNSでの発信も初めてみたものの、初めの3ヶ月は何も音沙汰なく、何もない期間を過ごしていました。正直、気持ち的にはめちゃくちゃキツかったですが、僕にはある信念がありました。

「公務員から転職が難しい、キャリアチェンジが難しいのは確かかも知れない。でも、そんな理屈だけでせっかくの人生を、命を無駄にしてほしくない!もっと一緒にチャレンジしていける未来を作りたい!」

実は僕の周りには、経営をされている消防士の方も数名いらっしゃいますし、転職をしている人、個人事業主をしている人と結構いろんな人がいるんです。そして、僕も含めて、みんな理想の自分自身になるために、努力をして次のステージでのキャリアを歩んでいます。だからこそ、僕がサポートしていきたい。そして、そんな人たちと一緒になって、公務員のセカンドキャリアを作っていきたい。そういった思いがあるからこそ、粘り強く初期の困難を乗り越えてきました。

僕が作ってるキャリア選択用の資料
資料の受け取りは▶︎こちら

その結果、450Pを超える資料と2時間越えの動画を作成して、少しづつ現役公務員の方々からお声をいただき、少しづつサービスも受けていただくことができるようになってきました。まだまだ認知度不足ではありますので、今後も資料のアップデート、サービスのアップデート、YouTube動画、勉強会など様々なことに取り組んでいく予定です。

4年目 過酷なタイ語2年目

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実は、いろいろあって、タイに来てから3回ほど引越しをしているのですが、この時期は特に時間に追われながら生活をする日々を送っていました。

【1日のスケジュール】

04:00 起床
04:50 シャワー、準備
05:00 出発
05:30 バス停到着
06:00 バス発車
    (移動中にタイ語の勉強、読書、仕事)
08:30 バス到着
09:00 徒歩移動(2.5km)、予習開始
11:00 授業開始
13:00 授業終わり
14:00 徒歩移動 (2.5km)、お昼ご飯
19:30 タイ語復習、仕事
20:00 バス停移動(2.5km)、バス出発
    (仕事、仮眠)
22:00 バス到着
23:00 ジム移動、トレーニング開始
01:00 トレーニング終了
02:00 帰宅
03:00 就寝

※これを周3日

タイ語のLevel2クラス

多分多くの方は嫌がるような生活をして、タイ語の勉強を行ってきました。途中からは、学力不足を感じて、英語とタイ語での日記もつけるようになっていった結果、徐々に日常会話が成り立つくらいにはなってきたことがとても僕の中で嬉しかった経験です。苦手としていた語学でも、少しづつやればできるようになるし、お世話になっている国へのリスペクトを持ってこれからも取り組んでいきたいと思えるようになりました。ネイティブではないからこそ、継続的に学んで、もっと成長していくことが僕の1つの目標です。

「近い将来、参入障壁が高くなってきているタイでも起業します….!」
※頑張ります!

現在と未来

ここからは、僕が今どんな未来に向かっているのかをお伝えしていきます。

主にやりたいことは

「公務員からのキャリアの選択肢の幅を広げるために自己理解と行動促進のサポートを行い、仕事を通して未来を繋いでいく人たちにもキャリア選択の1歩目を提供していくこと。」

公務員特化のキャリア支援事業

ご相談後の写真

なぜ僕がやるのか?

理由1
「僕自身がキャリア選択に悩んできた経験があって、消防士に限らず、多くの公務員の人たちがキャリアに悩み、転職後の後悔したくないとおもい、今生活していることを知っています。だからこそ、公務員を退職した僕たちが公務員のセカンドキャリアを一緒に切り開いていくことに意味があると思っています。そして、公務員からだってやれんだぞ!ってことを一緒になって証明していきたいから、僕はこの事業を取り組みます。」

理由2
「自分らしく働く大人が増えることで、大人になることを楽しくなる子どもたちが増えるのではないかと思っています。大変そうにしている両親を見ていて、疲弊している場面を見れば、それを子どもながらに感じたこともあります。だからこそ、これから大人になっていく次の世代の方々にも、自分らしく選択できる大人になって欲しいと思っているので、この事業を進めていきます。」

海外への就職支援(5年後までに)

 タイ語Level2の打ち上げ

なぜ僕がやるのか?

理由1
「海外経験を通して、ビジネスでも人生経験でも成長をしたい人を支援したたいと思ったからです。僕自身、海外にでてみて、大きく変わったことがあります。それは、仕事の幅が広がると考えたこと、そして価値観や物事の捉え方の幅が広くなったことにあります。語学力の向上をすれば、海外でも仕事が取れるようになります。また、海外では様々な価値観が混ざり合った中で共存をして、いることを理解しました。これらの経験は、僕らの人生をより豊かにしてくれルものであると考えています。だからこそ、海外を経験した僕が海外へのキャリア支援をすることに意味があると思っているのです。」

理由2
「これは、単純に収入の幅を増やすこと、キャリア選択の幅を増やすことにつながるからです。現在ではAIなどが主流となってきて、海外ではレイオフなどが盛んに行われつつあることを知っている方も多いでしょう。そんな中でも、海外の文化を知り、言語を話すことができるってことは、他国へのリスペクトができる人材であると僕は考えています。そういった人が営業であったり、経営者と話す場面などでは必ず役に立つ人材となります。あくまでも、仕事は人と人とが協力して出来上がるものです。だからこそ、単純に収入の幅を増やすこと、キャリア選択の幅を増やすことで、自己実現に向けてキャリア支援をできると考えているのです。」

フリーランス・起業支援(3年後までに)

なぜ僕がやるのか?

理由1
「僕自身がこの選択をしていて、海外に出るきっかけを作ることができたからです。海外に出て挑戦する方法として、転職をすることもできますが、ノマドワーカーのように、自ら案件を取得して仕事をしながら海外に住むことができます。しかも、海外で住むことができるのであれば、日本国内であっても無論可能です。簡単なことではないですが、このように挑戦をする方も知っているからこそ、僕が事業を作り、海外に挑戦していく、自分自身の力や周りの力を借りて挑戦していく場を作りたいと考えています。」

理由2
「起業することが、自己成長につながることを知っているので、そこに挑戦したい人を支援したいからです。僕自身も自らの事業を通して、人間的成長を生み出すことができたと考えています。とても抽象的なことではあるのdすが、感謝、愛、情熱などの人として重要であるものを理解する方法として起業やフリーランスなどの場が効果的だと考えました。そのようなことから、公務員の起業・フリーランス支援をしていきたいと考えています。」

最後に

ここまで4万文字に及ぶ僕の過去の経験をご覧いただき、ありがとうございます!

「元消防士のキャリアコーチ|星野良太」という人間がどんな人間で、どんな経験をし、なぜ僕が消防士から、人のキャリアをサポートを行ってるのかを知ってもらえたならとても嬉しいです。

この記事をきっかけに、深いつながりができたら、僕はとても嬉しいなって思ってます!

普段はSNS等で発信をしていると、なかなか感情の温度感を伝えづらい部分もあるので、リアルの場面でも興味を持ってくださった方とお会いできたら嬉しいです!

今後ともよろしくお願いいたします!

各種リンク

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公務員から民間企業への初めての転職、そして、転職に必要なマインド設計と海外の僕の生活を通して学んだ海外キャリアについてガチ解説してます。

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